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おきなわ旅(旧海軍司令部壕) #25

前回からの続きです。

遠景

漫湖水鳥・湿地センターの木道を歩いたあとは、こちらの場所にやってきました。ちょっと狭い道ばかりで道を間違えたけどね。😅

ここは旧海軍司令部壕きゅうかいぐんしれいぶごうといいます。
参観料600円で海軍司令部が最後まで立てこもっていた壕を見ることができます。

下の入口は閉鎖されていました

海軍戦死者慰霊之塔

県民募金で立てられたんだって


さらに高いところへ。

1945年6月には焦土と化した大地が広がっていたんだと思う。

西も

東も

北も

南も

資料室

入口はここから。ガラス張りで中に入るとムワッとして暑い!!

終戦から25年後にこの壕が一般公開されたらしい。
沖縄が日本に復帰する少し前ですね。

戦争に巻き込まれた沖縄の人たち

階段を降りて資料室へ。

もし顔でも出したら、一瞬で蜂の巣にされるな。

家族がどこに向かうところで、とり残されたのか・・・。

ぬちどぅたから

どんなときでも生き残るための戦い方はあるはず
20万人が亡くなるって・・・

地下の全体図はこんな感じになっています。
だいたい、左手を壁に当てながら進むイメージですね。

左手の法則は大事!


旧海軍司令部壕

資料室の見学を終えて、いよいよ壕に入っていきます。

壕に降りていく前の少し広い厳かな空間。
ここで手を合わせて戦争によって亡くなられた全ての人の冥福を祈ります。

階段を降りていきます。

意外と深い。当たり前か。

空気が変わる 転んだら危ない

信号室

右手側に信号室の看板。
抜け穴みたいな道から信号室に行けた。

信号室は意外と広い。

順路とかも書いてあるから中は巡りやすかったです。

信号室を見てから作戦室かな?

作戦室

作戦を練る重要な部屋とあったが物量に勝る相手に希望と言えるような作戦らしい作戦があったのかなと思う。

漆喰とコンクリートで固められた当時のままの姿らしい

幕僚室

幕僚室への道はちょっとおどろおどろしい。

幕僚というのは指揮官を補佐する各部門の長みたいな立場の人たちらしい。

司令官を含めて1945年6月にここで幕僚が手榴弾で自決をした。

暗号室

この壕は昭和19年に日本海軍設営隊によって掘られたらしい。

暗号室もちょっと広い。
機械を置いたりしていたためか?

医療室

医療室っていうか医療なんてしないで単に呻いていただけじゃないのか?
すごく狭い。

沖縄県民はこのように戦いました

美談でも何でもなく無念が取らせた筆のように思う。
淡々と伝え、後世特別のご配慮を自分の命に変えても成し遂げて欲しいと思ったのかも知れないとこの文章を読んで思いました。

発電室

例え地下でも発電は必要だったんですね。
確かに作戦、信号、暗号には電気が必要でしょうけど。


下士官兵員室

狭い道。

とても狭い。

立ったままで睡眠や休息を取ったとある。
うわぁ、自分が昔、終電まで働いて満員電車で立ったまま寝てたのとなんかちょっと重なる。

この先も

ちなみにこの地下に4000人余りの兵士がいたそうだ。

出撃の出口

兵士たちのほとんどは武器らしい武器もなくこの出口から出撃、大半が二度と帰ってきませんでした。

死ぬと分かっていてもそうするしかなかったのか・・・

司令官室

一部の通路は非公開でした。
案内を見る限り、ずっと非公開なのかな?狭くて危ないのかもですね。

司令官室の後ろの壁面には

『大君の御はたのもとに死してこそ
 人と生まれし甲斐ぞありけり』

と書かれてあったそうだ。

司令官としてできることはほとんどなかったんでしょうね。
『皆が国を守るためにそれぞれ命を尽くしていた』
と電報で伝えるぐらいしかできなかったということか。

出口

沖縄がいつどのように占領されていったのか
ちゃんと感じることができた気がしました。

とても貴重な体験をすることができました。

本当にありがとうございました。
平和な毎日がありがたいし、ずっと維持したい。

続く

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