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南都七大寺「大安寺」元石清水「八幡宮」鎮守社「推古天皇社」が謎

興福寺北円堂の四天王はこの寺のものなのですが。。。東大寺や興福寺も入る「南都七大寺」の1つで、仏教最先端の時代があり1000人以上の僧がいた大寺。行基、空海、最澄なども修行もしたところ!
時代は流れ京都に都が遷るが、ここに自称「元石清水」があるのだが、石清水八幡宮は拒絶し、石清水八幡宮が元宮で大安寺に分霊したんでしょ!!と。そして、推古天皇を祀る神社がありますね!?
 さてさて、今では「大安寺」としているが、その昔は「百済大寺」という名称であったりした歴史があり、名称からも大伽藍だとわかる名称の移り変わりである。

令和4年4月23日から6月19日まで、奈良国立博物館にて特別展「大安寺のすべて-天平のみほとけと祈り-」が開催。
 https://www.narahaku.go.jp/exhibition/special/202204_daianji/
※前期:十一面観音立像@重文
※後期:伝馬頭観音立像@重文
※通期:伝楊柳観音立像@重文、伝不空羂索観音立像@重文、伝聖観音立像@重文、、四天王立像@重文
※令和4年4月から宝物殿の増改修工事のため閉館
※京都・石清水八幡宮、奈良・岡寺などの宝物・仏像も出ます!
※虚空蔵菩薩多し。奈良・北僧坊、文化庁、トーハクから
※奈良・薬師寺より八幡三神坐像@国宝
※大分・永興寺、香川・鷲峰寺から四天王立像@重文
※長谷寺、神護寺、東大寺など古寺から国宝結構来ますね・・。

変更履歴

▼HP、アクセス祭神、本尊と脇時

※後述「▼見どころ」参照

▼見どころ

 大安寺と推古天皇社と元石清水八幡宮があります。この大安寺は東大寺ができる前は仏教の中心だったところです。3月のみ馬頭観音が公開になります。

八幡神社は大安寺南門とその南側の東西両塔跡に挟まれた位置に鎮座し、平安時代の同寺僧、行教が同寺境内に建てたとされる。行教は宇佐八幡宮(大分県宇佐市)から八幡神を迎え石清水(いわしみず)八幡宮(京都府八幡市)を創建したが、その頃建てられたという大安寺の八幡神社は「元石清水八幡宮」とも呼ばれる。
(中略)
前半は「宇佐から大安寺と石清水へ」(生井さん)で、行教が八幡神を奈良に迎え、大安寺に祭った過程をたどり、「大安寺になぜ八幡宮があるのか」という謎に迫っている。後半は「大安寺-鎮守八幡神社からの照射」(森さん)で、八幡神社の祭礼や祭祀組織について詳しく記しており、民俗学的に貴重な資料となりそうだ。

↓引用元「産経新聞」
歴史と民俗学から大安寺八幡宮の謎に迫る 研究者2人が著書


▽推古天皇社

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 大安寺伽藍絵図に南大門から中門の間に東に推古天皇・西に聖徳太子を祀る社殿があり、写真は推古天皇を祀る社。女帝「推古天皇」と言えば、聖徳太子が摂政をしたことで有名だが、大安寺との係わりは不明。

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 ほお~推古天皇の母って蘇我氏ですね。聖徳太子も蘇我氏系だろうし、なるほど~。

▽大安寺

 南都七大寺でその昔は仏教の最先端での寺で、ここにすべてが集まったらしい。平城遷都に伴って現在地に移され、華麗なる大伽藍には海外からの渡来僧も含め887名もの学侶がいたようで、日本の仏教大学の始まりかも。元々は70mの七重塔、九重塔が左右にあったとされる。今では三重塔、五重塔がほとんどなので、見てみたいもんです。今でも大安寺跡に行けばどこに立っていたかは分かる。

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  • 621年:聖徳太子がお亡くなりになり、後の舒明天皇に熊疑寺を国の大寺にするように望む

  • 639年:舒明天皇が「百済大寺」を発願。

  • 642年:皇極天皇が「百済大寺」造立

  • 673年:「百済大寺」から「高市大寺」し引っ越し

  • 677年:「高市大寺」から「大官大寺」と名称変更

  • 716年頃:平城京に「大官大寺」として移築

  • 702年~745年「大安寺」改称。『続日本紀』は702年、後者は『扶桑略記』は745年としている。

  • 718年:道慈は聖武天皇の改造を命じられる。

  • 858年:幼帝・清和天皇が即位に際して、行教が宇佐八幡宮に行き八幡神を勧請した。そのれが石清水八幡宮なのだが、大安寺の僧なので大安寺近くの祀ったとも。それは後述の「元・石清水八幡宮」参照で。

  • 791年:四天王を大安寺に安置した。

  • 949年:落雷で西塔焼失

  • 1017年:火災で東塔以外焼失し荒廃の道へ・・

  • 1090年代:南大門、西塔以外復活

  • 1140年:貴族・大江親道の日記には本尊は丈六釈迦如来坐像としている。薬師寺の薬師三尊@国宝以上と記している。

  • 13世紀:興福寺の末寺になっていく・・。ということで、興福寺北円堂の四天王は大安寺の四天王である。ただ、僧の中には西大寺派もいたようで、大寺のプライドか興福寺だ!西大寺だ!もしくは法隆寺につくべきだ!となっていたのだろうか。

  • 1475年:興福寺の僧も本尊は釈迦如来坐像としている。

  • 江戸時代も荒廃し、般若寺に宝物が預けられた。

  • 1892年:兵乱で本尊焼失したらしい。

  • 空海、最澄も修業した場所で、国際的な場所であった。

 福井県の若狭の大島もここの領地であり、素晴らしい仏像を残している。それはさておき、春秋に秘仏「十一面観音」と「馬頭観音」を公開している。

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 本堂には中央に十一面観音立像@重文で秘仏だが足元は見えるようになってます。堂内にはキリッとした「聖徳太子立像」、弘法大師「空海立像」、「弘法大師坐像」が安置されている。空海立像は個人的には珍しい分類だと思う。

 宝物館には歴史ある仏像が安置されている。注目は古式・馬頭観音かと。馬頭観音の多くは3面6臂が多いが、ここは初期の馬頭観音で、1面6臂である。

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 さて、この寺は2009年、2010年ごろの参拝で、あまり仏像の感銘を得れなかったので記憶がない。いや、私の仏像に対する知見と年齢か・・・。2022年奈良博で展示会がされたので、そちらを参照いただきたい。

↓2022/06/18公開

2022年「大安寺展」 in なら博
▽大安寺:十一面観音立像@重文
 前期のみでした。
 大安寺の現本尊は秘仏でカヤの一木造。造り方から鑑真と来日した仏師が作成したかもという説がある。理由は唐招提寺の伝・大自在王菩薩や十一面観音と相通じるためだとか。
▽大安寺:伝楊柳観音立像@重文
 正面は柔らかい菩薩顔だが、横から見ると馬頭観音、明王と思わせる憤怒の顔に見えたのは私だけか??
 正面に回り再度見仏すると、全体のバランスが素晴らしく、両目見開きの舌と歯が見えるのも珍しくて特徴。 専門家曰く1面2臂の馬頭観音立像説も上がっている。
▽大安寺:伝不空羂索観音立像@重文
 東大寺、広隆寺など大きな仏像が多く、鹿皮(ろくひ)と3目(額に目)がないことから「伝」がついているようだ。鎌倉時代などになると坐像が出てくるが作例数も少ない。
▽大安寺:伝聖観音立像@重文
 
観音様の特徴の1つとして、膝下まで腕が長いのが特徴なのだが、この聖観音はそれを満たしている。
▽大安寺:伝馬頭観音立像@重文
 やさしさと女性を感じる観音で憤怒の顔をする馬頭観音!福井の若狭地方あたりは馬頭観音が多いのだが、坐像がほとんどで、立像は少ない認識である。有名なところは京都・浄瑠璃寺ですかね(奈良国立博物館寄贈しており、2022年4月、6月はぶつぞう館で展示されていた)。
 面白いのは足で蛇が巻き付いている。この足に蛇は、秋篠寺の大元師明王、東寺の軍荼利明王とかすが少なく、観音ではなく明王である。ということで、元々は明王なのではないか?とも思ってしまうが、頭は観音の特徴である髪の結い方も観音であり、古書では馬頭観音の足に蛇が記されていることから、それを参考に制作されたとする。
 最後にこの仏像の文化財申請は千手観音なのだそうな・・・。
▽大安寺:四天王立像@重文
 作風からバラバラの四天王を集めたようだ。厳密には、前述のとおり荒廃した歴史があるので、残った勇者たちかもしれない。注目は多聞天ですね。単独で祀られると毘沙門天になるのだが、毘沙門天の遣いは獅子なんですよね。肩には獅子がいました!!
 そして、毘沙門と獅子といえば、京都・鞍馬寺、奈良・信貴山ですね!!

 最後に、この寺の近くには推古天皇社、京都の石清水八幡宮の元宮があるので忘れずに。

旧境内(国史跡)で金堂の基壇の遺構を初めて確認したと発表した。火災で焼けた痕跡があり、センターの担当者は「平安時代の火災後に再建された当時の基壇と考えられる。寺の中枢を考古学的に確認できた貴重な成果だ」と話している。

↓引用元

→御祭り


▽元石清水八幡宮:八幡神社

 元石清水八幡宮は、807年に大安寺の鎮守社として建立。僧・行教(ぎょうきょう)が、宇佐八幡宮を分霊した古社。

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 御朱印に元石清水八幡宮とあり、三大八幡宮の京都・石清水八幡宮の元宮とか。唐に留学した奈良大安寺の僧「行教」が帰国の際に宇佐神宮から大安寺の石清水房に祀ったのが始まりとする。

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 大安寺の鎮守神「石清水八幡宮」とし、その後に京都・石清水八幡宮と流れだとする。ただし、京都・石清水八幡宮は、宇佐八幡宮から遷座なので、奈良が京都から勧請したものだとして元宮であることを否定しているようだ。

元石清水八幡由緒
 行教和尚は夢の中で 京都の男山に八幡大神(応神天皇)を祀れというご神託を受け、859年(貞観元年)京都府八幡市に山城石清水八幡宮(男山八幡宮)が建立されます。
 この件については、行教和尚が 改めて宇佐神宮へ出向き 男山に八幡大神をお招きしたという説と、大安寺より分神したという二説が語り継がれております。
 1113年(天永4年)4月、奈良 興福寺大衆が 当時の習慣に則り、神輿を出して天皇に直訴するが、男山八幡宮は奈良の大安寺から遷座したものだから 共に参加するようにと呼びかけたところ、男山衆は 男山の八幡大神は宇佐神宮から直接 お招きしたもので、大安寺とは関係ない と「本社」を名乗って譲らなかったそうです。

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 祭神は仲哀天皇、神功天皇、応神天皇。

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 ちなみに、京都・清水寺を創建した僧侶も奈良・子嶋寺出身であり、奈良→京都南山城→京都と流れたのが賀茂社(下鴨神社・上賀茂神社)という歴史の流れから宇佐→奈良→京都に移っていくのも嘘ではないかもしれない気がする。いずれ考古学が証明してくれるかもしれない。
 最後に、2022年の大安寺展の最後の方に宇佐八幡宮の宝物があった。なるほど!八幡神を宇佐八幡宮から勧請したであろう僧の絵だったのはわかるが、真実は不明だった・・。

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▼旅行記

▼セットで行くところ


▼仏像展

▽2022年 奈良国立博物館『大安寺のすべて―天平のみほとけと祈り―』

124件(うち国宝10件、重文50件)が出展!奈良七大寺!!集まれ!大安寺の仏像たち!!


https://www.narahaku.go.jp/wodpr_nh9/wp-content/uploads/2022/02/20220217daianji_list.pdf

あれ、岡寺「義淵僧正坐像@国宝」や、顔が割れて観音が出てくる「宝誌和尚立像@重文」なども展示されるようですね・・。


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