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No.3:京都のことを知りたい人。観光地以外のあれこれ。ガイドに載らない地元民の生活文化。おもばな満載!

まずは、No.1と目次を見てください。

・アンタッチャブルでナイーブな地域


(地図の4、付近)

やはり京都を語るうえで、避けては通れない、もう一つの京都の顔の話をする。もう過去だから問題ないので話すが、あまり触れてはいけないタブーとされた地域がある。というかあった。

当時は、京都駅沿いに東へ歩いて行くと、僅か10分もしないうちに高瀬川から鴨川に突き当たる。
その北側を東七条=「内浜(うちはま)や皆山(かいざん)」今は「崇仁=すうじん地区」と言って、被差別地域の同和地区がある。

バラック小屋のような家が多く、昔から「あそこは、行ったらあかん」と言われた、日本一のシークレットゾーンである。

(昭和初期の高瀬川沿いのスラム地区のバラック)

京都人でも、上(かみ=北)の方の輩はここのことをほとんど知らないと思う。京都0番地といって地図にも載らない場所だったからだ。
京都市も手を付けずに、最近まで放っておいた無法地帯だ。
「え!そんなとこがあるの」って思うだろうが事実である!

俺は、そこにバンド仲間がいたのでよく行ったが、よそ者が入ってゆくと「あんたらどこ行くの」って声がかかる「○○と友達や」っていうと、「あっそ~か」で終わるが、「エッ、なんで」とかいうと、「ここは、あんたらが来るとこちゃう」「はよ、出ていき」という会話になる。
それ以上しつこく「なんで、自由やん」なんて言うと「出ていけいうとんのがわからんのか、こら!」と威嚇される。
よりしつこくすると、何人かで囲まれて、脅されて、下手すると、ボコられる。以前のアメリカのハーレムやブロンクスみたいな危険な場所だ。

(今も残る店、「キャロル=矢沢栄吉のグループ」が着ていた、皮ジャンを買った)

今でも、皮ジャン売る店や靴屋が、少し残ってはいるが、当時のようなダークな雰囲気はないし、暴力沙汰もないようだ。
多くのバラック小屋はこわされ、フェンスや金網がはられ、住人は近くの団地に移っている。今も新幹線で鴨川を渡るときには高さがあるフェンスで、その付近が乗客(特に皇室の人たち)から目に入らない様にしてある。下に写真あり。
ピーク時にはなんと、10000人ぐらいの人が住んでいた。いまは、団地に入った人を含め1500人ぐらいと言われている。

ちょっとだけ、歴史に触れると、武士の時代には、「六条河原」という、獄門張付をする処刑所があって、処刑したり、死体処理などをする「えた」と呼ばれる人たちがいた。
その輩は、一般人が避ける仕事を引き受ける代わりに、ただで、六条河原周辺に住居を提供されていた。

歴史が移り、処刑が無くなってからも近年まで、そこに住んでいたが、都市開発と共に、徐々に南下を強いられ、今の東七条から東九条(通称トンク)の高瀬川、鴨川沿いに移り住んだ経緯がある。

決定事項として、この地域に2023年〜に京都芸術大学が移転することになっていて、今は、空き地が多く、昼でもひっそりしており、観光客は、行かない方がいいだろう。

なお、京都にはこのほか指定された同和地区が「8か所」ある。
楽只地区(北区紫野付近)、養正(左京区田中)、三条(東山区長光)=2000人から2500人、壬生(中京区西ノ京北小路町)、錦林(左京区鹿ケ谷)=1000人から1300人、崇仁(南区東七条~九条)=10000人、竹田(伏見区竹田)=2000人、深草(伏見区深草)=1400人だ。

これから「京都に住もうと思っている人は、知り合いでもいない限り、これらの地域は、お互いのために避けた方が良いだろう。

(フェンスで目隠し。新幹線の橋)
(鴨川の新幹線のフェンス。外は見えない。 右はバラックが取り壊された跡地)

崇仁にかかわらず、どの地区も似たような歴史で、あまり、おしゃべりしない方がいいが、知っていた方がいい話だ。

知るべきは、確かにこの人たちは、差別されてきたが、武士の時代から、人が嫌がることに従事し、見えない力で、その土地の生活を支えてきた。この人たちがいたから、汚い嫌なことも処理されてきた。まさに影の功労者である事実だ。

・次に、さっき少し触れた、駅裏南東のヤミ市跡には、東九条(通称トンク)と呼ばれている地域がある。(今は崇仁地区に入る)

九条ネギの「九条」には、西と東があり、西九条(通称サイク)=日本人の中に少し在日韓国・朝鮮人が混在する地域で決してガラはよくないが、さほどではない地域と、東九条=日本人の方が少なく、京都でも、在日朝鮮人韓国人が集中している「コリアンタウン」になっているとこがある。(地図のちょうど4、付近)

(今もある東九条=トンクの店)

ここは、1920年、日本が朝鮮統治をしていたころ、多くの朝鮮人が、京都の開発に労働に来ていたが、本国に帰り損ねたり、そのまま残留して職を失った朝鮮人が多く住んでいて、京都では最もガラが悪く、前述した同和地区の南側に隣接している、触れたくない、行きたくない地域だ。ここも、しばらく市も府もタッチしない無法地帯だった。

特に、北朝鮮人はひがみやコンプレックスが強く、日本人には対抗的で、怖い。当時は、川沿いにずらっとかなりのスラムがあり、同和の住人でもないのに、不法占拠してバラックを建て、税金も払わず、バックレの朝鮮人が大勢住んでいた。(あくまでも当時はだ)

今は、取り壊され、わからないほど変わっていて気にすることはないが、よそ者が住む場所としたら、??が付く。
一昔前に、沢尻エリカの映画で「パッチギ」という映画があったが、

(映画「パッチギ」の写真とワンシーン)

たしか、この地域で撮影された映画だ。当時の雰囲気がうかがえる。
ちなみに「パッチギ」とは=頭突き=ズーパンのことで、朝鮮語だ。喧嘩すると「パッチギ入れんぞ、こら!」とか言った。

余談だが、学生の頃、一番強く怖いのが、「朝鮮高校=通称ちょんこう」

と「朝鮮中学=ちょん中」=左京区の北白川(高級住宅街)の一角に同敷地にあり、「サンペン=校章が三つのペン先をデザインされている」といって、怖がられた。繁華街でもそいつらがいると逃げた。
とにかく、ケンカが強く、学ラン(学生服)も決まっていた。
幼稚園と小学校は伏見にある。

韓国中高校(現:国際中高校)もあったが、そんなに過激ではなかった。
2番目が「陶化中学=現:小中一貫校の凌風学園」で、この学校が、このトンクにあった。朝鮮人や同和の輩が多く、大変悪かった。

連ドラ、ラグビーの「スクールウォーズ」は伏見工業高校がモデルだが、われら九条の学区内公立工業高校で、この地域から行ったやつも多く、部活をやっていない奴は、おおむね悪ガキ(ツッパリ・ヤンキー)だった。

(スクールウォーズは山下真司が監督役で主演と伏見工業の面々)

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