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祖母の生きた大正昭和を5人でかえりみる~4 兄嫁のミサオさんから見た祖母~  --大正13年 縁故のない家の家督を相続した女子大生--

私は 新潟生まれの新潟育ち。
この地から遠く離れたことはない。
農家の家の次女として育ち、家の手伝いをしながら大正13年25歳の時に
突然降ってわいた縁談で、現夫・理一さんと結婚することになる。

理一さんは近隣の大きな農家の長男であるが、その家に新婚時、半月も住まなかっただろうか、直ぐに東京の義理の妹の所へ上京した。
普通よく聞く話では農家は多世帯で住み、祖父母から幼い兄弟の大勢の下働きを 長男の嫁が一手に引き受け、その苦労は並大抵ではないという。
が、この家は義理の母と妹ふたりと夫で住んでおり、地主の仕事は母妹・差配の者でほぼ賄われていた。

とはいえ、戸主である長男が家を離れて東京で暮らすことは、周囲の反対を押し切った大きな決断であったと思う。
この家の人たちはお嫁に行った姉さま達を含めて、今まで見たことが無い程
自由な人達だった。
この時分、地域でも家の中でさえ、女は意見を言わない言えない存在であったけれども、ここでは理一さん男ひとり、女7人で意見が言える環境であったか。
父親が亡くなってしまった時にはまだ学生であった夫は、歳の離れた姉達によく力になって貰ったことを忘れず・父の方針通りに妹達にも学業を修めるよう 心していたようだ。
農家といっても一括りにはできない、かなり貧富の差・地域差があった時代、地代も払えず借金のかたにヤミ人身売買などの恐ろしい話も、、、
余裕がなければ子女の教育にかまけてはいられない。

そんな中、大正13年、東京の大学へ通っていた義理の妹のもとへ、
彼女の後見人となるべく、夫婦で越すことになった。
振り返ると、大正3年頃から第一次大戦後の好景気により、人々が都市に集中し出したという。
様々な土地からの移住者が、ごった煮のように入り混じり、地方とは違った活気に溢れていた。
地方とは言っても、地元・高田では日本で初めてのスキー競技が伝えられ、
スキー娯楽の発信地という場であったから、そう閉じた地域ではなかったのだが、やはり東京は違うと感じた。
日本中のいたる地域の農村から、仕事お金食べ物を求めて集まった人々は、震災後の東京を瞬く間に再興するべく、熱気に満ちていた。
私たちもその一人、疎外されるような事もなく、村の習わしの数々に縛られることがない。
ガスや水道が整備されつつあり、住宅は衛生的で村の暮らしとは大きく違った。
その頃の家庭雑誌を見返すと、都市は繫栄し農村は疲弊して その隔たりは極端だ、と嘆く声が載っている。
正直、私は都市文化への憧れがあり、不安より期待が大きかったと言える。

義妹のイハさんは5つ年下の学生で、勉強は出来るだろうが、跡取りとなった家の家財の管理・ご先祖の供養等々、慣れない事ばかりである。
夫の指示や決定を受けて、速やかにイハさんが動けるように支援し、生活を共にし様々な種類の人が住む都会で、彼女を守る事 も私の仕事となった。
財産持ちの女学生ということで、変に注目する輩も多かったからだ。
彼女は学生らしく慎ましやかで、華美になる事もなかった。
衣類は洋装化が進み、合理化されたような動きやすい衣服が出てきていて、
私たちは珠に、洋服に身を包み楽しんだ。
家計は夫が管理をしていたが、その点は大目にみてくれていたようだ。

落ち着いた頃、夫は東京内の工場や工場で仕事をし、得たお金は新潟へ送っていた。子どもも4人生まれ、大所帯になる頃、イハさんにも縁談が多く持ち込まれる。
いつまでも女が戸主であることは、いけない事のようだ、
彼女にとっても 一緒に家を守る人がいるのは、喜ばしいことだろう。
だが人選が難しい、あっという間に財産を使い果たすような輩は排除しなくてはいけないからだ。

充分 彼女の行く末を見守ってから、新潟の家に戻ることは、
最初から夫も決めていたようだ。
新潟の家を守る母も高齢になってきていて、妹二人にも不安があるようだ。
イハさんが良き夫に恵まれ、第1子が生まれた時、ようやく夫理一の許可が下りて、入籍し、イハさん達は正式に夫婦となる。
この時私たちが上京してから8年経っていた。
安心してイハさん夫婦に託し、仕事を終え、地元新潟へ戻る時がきたのだった。私にとっての第2の生活が始まる。

その後、戻って間もなく義母は亡くなる。
また、私たちが居ない8年間に、地元地域の田では共同灌漑を始め、
ようやく苦労の末、成果が出始めた頃であったので、夫の立場は
なかなか難しいものがあり、苦労することになる。
留守を守った義母と義妹の苦労もいかほどであったか。

戦中戦後を生き抜き、土地改革で地主としての役割を終えることになる。
7人の子を育てたが、長男はこの地に残り農業を継ぎ、
他の6人は、全員この地域を離れて東京や神奈川・大阪の都市部へと、
仕事と生活の場を移していった。
イハさんは冠婚葬祭時には、必ず顔を出してくれ、心強い存在であり同志であった。

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