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自然の中で過ごすのが好き、古いものが好き。 少しづつですが文章をアップさせていただきま…

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自然の中で過ごすのが好き、古いものが好き。 少しづつですが文章をアップさせていただきます。

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祖母の生きた時代 参考資料

大正13年 縁故のない家の家督を相続した女子大生 (5人で振り返る 兄嫁 姉 祖母本人 父 私) << 参考資料 >> --- 明治大正・昭和初期 --- <明治大正期> 平成日本の原景 大正時代を訪ねてみた よみがえる戦前日本の全景 遅れてきた峡谷の制度と仕組み 大正という時代 月給100円サラリーマンの時代 戦前の日本を知っていますか? 明治期の庶民生活 岩波講座日本歴史 17近現代 <明治昭和 東京市地籍地図> 東京市及接続郡部 地籍地図(東京市調査会 1912/4

    • --大正13年 縁故のない家の家督を相続した女子大生-- 祖母の生きた大正昭和を振り返る 5.姉ヨシエさんから

      祖母の生きた大正昭和を5人でかえりみる ~5 姉ヨシエさんから見た祖母 ~ 我が家の家族の話は尽きません。 比較的余裕のある地主農家だった為か、姉達3人も若くして嫁に 出されることも無く、仲睦まじく育ちました。 私が9歳の時に父は亡くなり、その時末の妹はまだ赤子でしたから、 男女隔てなく協力して家を守ろうとしていたようです。 家長は男一人の、長男 理一で、まだ20歳そこそこの学生でしたから、 母を助け長男を支える、姉ふたりの力は絶大だったと思います。 私から見れば、姉ふたり

      • 祖母の生きた大正昭和を5人でかえりみる~4 兄嫁のミサオさんから見た祖母~  --大正13年 縁故のない家の家督を相続した女子大生--

        私は 新潟生まれの新潟育ち。 この地から遠く離れたことはない。 農家の家の次女として育ち、家の手伝いをしながら大正13年25歳の時に 突然降ってわいた縁談で、現夫・理一さんと結婚することになる。 理一さんは近隣の大きな農家の長男であるが、その家に新婚時、半月も住まなかっただろうか、直ぐに東京の義理の妹の所へ上京した。 普通よく聞く話では農家は多世帯で住み、祖父母から幼い兄弟の大勢の下働きを 長男の嫁が一手に引き受け、その苦労は並大抵ではないという。 が、この家は義理の母と妹

        • 祖母の生きた大正昭和を5人でかえりみる  ~3 祖母 本人~ 大正13年 縁故のない家の家督を相続した女子大生

          私の兄弟姉妹は9人いたことになる。うち3人は6歳前後で亡くなっている。 私は7女で、下からふたつめ、一番上の姉とは20歳以上離れていた。 なので、父母と祖母、歳の離れた姉ふたりと兄、年の近い姉ふたりと 6つ下の妹と、10人でひとつ屋根の下で暮らしていた。 私の家は新潟の比較的大きな地主農家であった。ここで私は明治38年に生まれた。 所有田畑の計測管理やその地代の管理、小作人達の相談事などを家族ぐるみでしていた様に思う。 なぜなら、私が物心ついた頃に父は亡くなり、兄弟姉妹のう

        祖母の生きた時代 参考資料

        • --大正13年 縁故のない家の家督を相続した女子大生-- 祖母の生きた大正昭和を振り返る 5.姉ヨシエさんから

        • 祖母の生きた大正昭和を5人でかえりみる~4 兄嫁のミサオさんから見た祖母~  --大正13年 縁故のない家の家督を相続した女子大生--

        • 祖母の生きた大正昭和を5人でかえりみる  ~3 祖母 本人~ 大正13年 縁故のない家の家督を相続した女子大生

          祖母の生きた大正昭和を5人でかえりみる ~2 父からみた祖母~

          私は父母の5番目の子どもで、男ばかりの末っ子だ。 昭和初期生まれた。 もの心ついた頃から、ただただ食べるものが無く腹ペコであった。 2つ上の兄とよく連れ立ち、東京雑司が谷の原っぱを歩き回り、石を蹴ったり投げたりして虫を捕まえたり、草を食べてみたり。 ある時は野犬に追われた怖い思い出もある。 親戚の家などに疎開できない子のための、学校単位での疎開では長野県へ 兄とともにのがれた。 地元の子どもとは、委縮してしまい仲良くなれることも無く、取り囲まれて からかわれたり、腹一杯食べる

          祖母の生きた大正昭和を5人でかえりみる ~2 父からみた祖母~

          祖母の生きた大正昭和を5人で顧みる ~1 私からみた高嶺の祖母~

          私は1967年生まれ(昭和42年)です。 祖母イハさんの印象は、お正月や法事の時に会う人、 あまり話さず、静かに微笑んでいる人 です。 電車で1時間で行ける距離に住んでいるものの、そう気軽に訪ねられる人ではありませんでした。 法事の時などは、いつも父ら兄弟5人に囲まれている人であり、 長兄のお嫁さんに付き添われ、何か指示したりしている姿が浮かびます。 私の母を含め、お嫁さん方も気安く話しかけることは出来ていなかった様です。 なので、私も甘えた声でおばあちゃーんなどと呼んだこと

          祖母の生きた大正昭和を5人で顧みる ~1 私からみた高嶺の祖母~

          祖母の生きた大正昭和 を5人で返り見る ~序章~

          わたくし(55歳昭和生まれ)がこれを書こうとした思いは、 父の家は特質な家なんだな と子どもながらに思ってきていて、 いつかその軌跡を辿りたいなと思っていたからです。 半世紀を生きてきた今、聞いてきた事を確かめ、その先人が 生きた記録を少しでも書き留めて、後の者へつなげられればいいな と思います。 生前の祖母や父にどうしてインタビューしたり、確かめたりしなかったのか そうすれば正確で、激動の人生が書けたのにと 後悔もありますが、 当時のわたくしは後にも記しますが 私は祖母

          祖母の生きた大正昭和 を5人で返り見る ~序章~