見出し画像

祖母の生きた大正昭和を5人で顧みる ~1 私からみた高嶺の祖母~

私は1967年生まれ(昭和42年)です。
祖母イハさんの印象は、お正月や法事の時に会う人、
あまり話さず、静かに微笑んでいる人 です。
電車で1時間で行ける距離に住んでいるものの、そう気軽に訪ねられる人ではありませんでした。
法事の時などは、いつも父ら兄弟5人に囲まれている人であり、
長兄のお嫁さんに付き添われ、何か指示したりしている姿が浮かびます。
私の母を含め、お嫁さん方も気安く話しかけることは出来ていなかった様です。
なので、私も甘えた声でおばあちゃーんなどと呼んだことは一度もありませんし
祖母から握手やら背中をさする、ほっぺをなでなで等、スキンシップをされた記憶も一切ありません。
かくしゃくとした老婦人というイメージに相応しく、近寄りがたかった。

私が生まれた時には、既に祖父は亡くなっていて祖父は未亡人でした。
ですが祖父は戦争で亡くなった訳ではなく、64歳で脳溢血だったそうです。
私が物心ついた頃には、父の長兄夫妻が祖母と同じ東京の敷地に住んでいました。

父はこの家の5男の末っ子で(昭和10年生れ)、大層わがままな感じでした。
うちは核家族で、父は電気関係の勤め人で母は全くの専業主婦、
一度も外で賃金労働せずでした。
父はよく’おふくろおふくろ’と言っていて、’親を敬え’とも言っていました。
とても祖母を敬愛していたようです。
一般の女性には、店員さんとか・旅先の仲居さんとか、には文句ばかり
愛想よく自分を敬ってくれる様子が見られない女性に対し、
態度が悪い 生意気だと よく説教を垂れていました。口が達者でした。
母に対してもそうでした、母がそれに反論するところは見たことがなかった。

男尊女卑をどこで教えられたのか分かりません。
昭和の30年代生まれくらいまでの男は、(区切りを入れるのは正しいか分かりませんが)
’女が口答えなど生意気だ’と当然のように発言していました。
母も実家でお父さんや兄さんに口答えしないと言っていたので、
女側にもそういう躾がされていたのでしょう。
父は祖母にこう言い聞かされていたようです。
 永藤の家は江戸末期から続く由緒ある家で、それを継いだのだから
 誇りを持ち生きなさい。
 私は帯刀を許された家の出で、大学で学業を修めて家督をついだ
 この血を継いでいることも大切にしなさい。
 この戦後を生き兄弟みんな大学を出たこと胸を張りなさい。

そういう訳なのか
自己愛が強く見栄っ張りなところがあり、いつも自身にかまけている父で、
母とわたしたち子どもにお金が回らず、わたしらはいつも薄汚れた服を着ていて
歯並びは悪く、衣食ぎりぎりで文化的な風を嗅げず終いでした。
書店も歩いて30分の所に小さな一軒、図書館は電車に乗らないと行けません。
TVもくだらないという理由で禁止、あの当時インターネットがあればだいぶ違ったでしょうか。
父の命令は絶対で、
学生時のバイト・夜の外出はだめで、家畜のようなものでした。
そして私だけ父への反発心を隠そうとはしなかったので、殴られたり'山に捨ててきたい'
と言われてしまいました。

なので、光輝くような敬愛される祖母に、堂々と個人的に会いに行くのは
ずっと後の、社会人になって少し自信がついた頃になります。
祖母は85歳位でちょっと気弱になっていたでしょうか。
祖母が若い頃、子どもの学費を工面しようと、家で裁縫教室を開いたこと、
OLさん達が仕事の後、大勢来た事。
黒い絹の生地に金糸銀糸で刺繍したきれいな鶴を、見せてくれました。
また、独り暮らしになってから、2階を女性専用の下宿部屋にしていて
今は誰も入っていない、その部屋を見せてもらいました。
(もっと早く知っていれば、その下宿に入りたかった。。)
更に、コンピュータを使った仕事をするなんて凄いね と。
刺繍とかとは違うもの。新しい事だし職業婦人だわ。頑張って。と言ってくれました。
静かに、破顔したり姿勢を崩すことなく、笑うのです。

ピザを注文してみんなで食べて、
最後に祖母のお姉さんの写真を見せて頂きました。
何番目のお姉さんかわからないのですが、
車いすにのって笑顔の白髪のおばあさんが写っていまして、
アメリカ・サンフランシスコに住む姉なのよ と言っていました。
わぁー!と 唸ってしまいました。
祖母のご兄弟姉妹も優秀だったのだな?と思いました。
どんな経緯で渡米したのか聞けば良かったな。。。


大正12年 関東大震災で一家で焼けてしまい、跡を継ぐ人がいない時、
祖母に依頼があり、遠く新潟から籍を移して 家督相続したそうです。
その財はいかほどか。

私は分家の孫だし、知る由もなく
財産を狙っていると疑われそうで、当時から聞けなかったのですが。
該当の戸籍地 東京市の
大正1年・明治45年・昭和9年のそれぞれの地籍者名簿と、
東京市及び接続郡部地籍地図を見ました。
しかし、各区を見たが名前が載っていなかったのです。

よって、土地持ちの農家ではなく 話どおりに商売(占い?)をしていた様で、
金銭的財産とお墓を継いだと思われます。
町家では女子に跡を継がせ、入夫をとる事もあったようなので、その習わしでしょう。
そして、その財産を糧に農地解放時などや高度経済成長期に
宅地を所有して大家となり賃貸料を得ていたようです。

熱心にお寺の檀家さんとして、供養したり高額を寄付をしていたこと
を覚えています。収入は多かったのでしょう。
また、祖父が亡くなった際には、それぞれの兄弟に土地が譲渡されたそうです。
そういった所に、父の恵まれた高いプライドが見えます。

父は大切にされ恵まれ、そういった環境を当然と思ったかどうかは
判りませんが、その環境を子や子孫に残そうという気は
起きなかったのかな。と思います。
結局うちら姉弟は、父の過度な支配と暴言に嫌気がさし 離散してしまいました。
弟などは、ついに最後まで父に会うことはありませんでした。


私は結婚し子どもに恵まれて、反面教師的に子育てを実施できました。
自身は通信制でですが大学を修め、幼少時のリベンジは出来たかな、
嫌な経験も無駄ではなかったのかなと、今となっては、そう思います。
22歳ごろバブル時代と重なり、その印象ばかり語られますが、
私の周りでは、アルバイトを掛け持ちしながら専門学校を卒業し、
仕事をしつつ実家に仕送りする人が何人もいました。
親ガチャ なんて言葉は彼らからほど遠い。
地に足を付けてバブルを客観視しているような堅実派も多かったです。

私は婚家の両親から、実家とお付き合いなさいと言われている気がして、
両親に子どもの顔を見せに行くうち、20年も経ちました。
何ともなしに少し関係が緩和され、終いには逆転してしまったかのように感じました。
率直に’お前しか居なくなってしまったから、仕方ない’と、
最後には’孫に懐いて貰って嬉しかった’と言われました。

祖母の代の考えや財は間接的に受け継いでいるはずです。
が、たまたま生まれた家が、多くの人々の財を搾取して得た特権を持っていたり、
教育の機会に恵まれたり、運よく災害や事故に巻き込まれなかった、
病気でなかっただけ なのに、
私らは特別で、みなとは違う。という特権的な意識を持つのはとても害が大きい。
と思う。そのおかげで、どれだけつまらない諍いが起きたか、
世間体などという実体のない言葉に 右往左往させられたのか。
いまではプライドや財産を継がなくて 本当に良かったと思ってしまいます。

ところで
昭和20年代に入っても農村女性のアンケートの答えでは、
ほぼ女性は意見など言えない、意思が通らない事が多い という答えが多数。
しかし調べれば、祖母の実家の家族・特に女性たちは明治生まれの大正育ち、
地方の出なのに、当時の女性としてはとても自由に活発に生きて来たように
見受けられます。
女性だって男の隷属的支配を受けるだけではない、嫁にいくだけではないと
生きて来た様が、ぼんやりとですが、見えるのです。
凄いな。
その遺伝子なり環境なり、少し受け継ぎたかったなあ。

まだまだ封建的家制度を大切にする風潮が残る昭和世代の人。
今、表立っては口にしないけど、男尊女卑は心根の奥で、多くの人にまだ残っている。
女ひとりひとりが、散々戦って来たけれど、まだまだ戦わなくていけませんね。
’みっともないから引っ込んでろ’と言われてきた女側のダメージは大きいけれど、
年配の女性たちも、口を塞がれてはいけないな。
しっかり物言う人間として、女も強く生きなくては と思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?