見出し画像

--大正13年 縁故のない家の家督を相続した女子大生-- 祖母の生きた大正昭和を振り返る 5.姉ヨシエさんから

祖母の生きた大正昭和を5人でかえりみる
~5 姉ヨシエさんから見た祖母 ~

我が家の家族の話は尽きません。
比較的余裕のある地主農家だった為か、姉達3人も若くして嫁に
出されることも無く、仲睦まじく育ちました。
私が9歳の時に父は亡くなり、その時末の妹はまだ赤子でしたから、
男女隔てなく協力して家を守ろうとしていたようです。
家長は男一人の、長男 理一で、まだ20歳そこそこの学生でしたから、
母を助け長男を支える、姉ふたりの力は絶大だったと思います。
私から見れば、姉ふたりと兄は10~20歳も年の離れた大人、
怖い存在であって、はしゃぎすぎた時などはよく𠮟られ、
姉たちの前では緊張していたものでした。

その点、直ぐ上のチカ姉は身近な存在で、学校から帰れば
よく遊んでもらい髪を結ってくれたり、赤子の面倒もよく見ていました。
私が高等小学校に通い出した頃、チカ姉は、女学校を卒業していました。
その頃、地元の都市高田界隈に、多くの人が住み商いをしていたのですが、
そこへ勤めに出始めたようでした。
段々と綺麗になってゆく姉には憧れましたし、何より給金で
町で買ってくる、色鮮やかな飴玉や変わったお菓子などを
貰うのが嬉しくてたまりませんでした。

私はイハのふたつ上の姉で、いつもどこでも一緒でした。
新潟の中でも豪雪地帯と呼ばれる場所に住んでいたので、ひとたび大雪
が降れば、塀の雪囲いは全て雪に覆われて、家の中は真っ暗になります。
また地吹雪も吹く危険があり、学校にも行けませんが、姉妹で上の学校へ
進む為にもと、競い合いように勉学に励んでいました。

そうこうしているうちに、チカ姉の様子が変わり、どんどんお腹が大きくなって
いきました。
私たちが知った頃には、兄がその相手の男と話をつけてきたようでした。
相手は既婚の男で、子の認知はするものの、直ぐには結婚できないとのこと。
この赤子の男の子は、我が家の養子として育っていきます。

問題は他の姉達に及びます。たとえ家・親戚を説き伏せることができても、
村や地域中の人々の口に戸を建てることは出来ません。
少々裕福な家だからと言って、自由に女が振る舞う事を良しとしない、
世間の目が、圧力があることを知りました。
私生児を産んだ家に圧力が一気にかかってきたのです。
兄は長姉と次姉の縁談を早々に決めて、姉達に従ってもらいます。
37歳と32歳で、それぞれ同い年の方と結婚して家を出ました。

この時私は15歳で、師範学校に通い始めます。
ふたつ下のイハには、また私とは違った道に行って欲しいと思い始めて、
次姉は熊本にお嫁に行きましたし、地元から離れる進学もあるのでは
と考えていきました。
地方の農村から出る事を考えてもいいのではと。
幸いイハの学力は安定していて、東京の高等女学校(のち大学を名乗る)へ
の受験を許されます。
そこまでして女に学問が必要か?と兄も悩んだようでしたが、
チカ姉のこともありましたから、同じ轍をふまないよう勉学に集中する
ならよいだろうと、認めてくれたのでした。
こうして妹は単身、東京の学校へ、寄宿舎へ上京するのです。
おそらく大変な出費になったことでしょう。

私は卒業後、末の12歳の妹や5歳になった甥っ子の世話、家の手伝いを
していましたが、お話があって教員として働くことになりました。
そこでは、毎日のお弁当や衣服・修学旅行費用に事欠く子どもの多いこと
に気づき驚きます。

都会の学生生活に慣れて来たイハから、長い手紙で元気な様子を伺えます。
そんな中、大正12年(1923)、東京・横浜で関東大震災が起きてしまうのです。
このニュースを聞いて、また浅草などの焼け野原の写真を見て、ゾッとします。
イハは無事だろうか。私が勧めなければ地元にいたはずなのに。
安否を知るまでは生きた心地がしませんでした。
数日が経って、無事との電報が入り、一同ほっと胸を撫でおろします。
母とは手を取り合い泣いて喜びました。

倒壊と火災で多くの人が亡くなった悲惨な震災でした。
大正12年10月25日発行の東京市震災焼失区域明細には、
日本橋区・京橋区・神田区・浅草区・深川区・本所区・横浜市は
’全部焼失’ との文字があります。

震災の混乱が少しは収まった頃でしょうか、役所の管財管理の動きが
活発であったのでしょう。
兄は東京の妹の所に頻繁に通います。
どのツテのお話なのか、震災で亡くなった一家の管財を引き継ぐお話が
妹のイハにあったようで、兄は即座に受ける事をきめたようです。
まだ学生だけれど、私が手伝いをするから引き受けなさい、と。
東京市墨田の、人々が避難していた場所(その後全焼しまったのだが)
その地区に近い家の方だったそうです。

そうして震災から半年後、イハはこの家を出て、永藤家の家督相続人となるのでした。
運命が変わり、もうこの家で暮らす事も無く姉妹でないという寂しい気持ちと、
一気に財持ちの戸主になるという、女としては破格の出世に、
胸の内では嫉妬心が湧いて、中々消えません。
あれだけ妹を応援していたにも関わらず。
また13歳上の兄は、私たち末の妹にとって遠い、父のような存在であったのに
すっかりイハに付ききりになって、この先、東京で暮らすと言うのです。

兄を取られてしまったようで悔しいのですが、
兄を欠いたこの新潟の家の留守を、母と任された責任もまた大きく、
気が張ってめげることは無いのでした。この家の女はみな強いのです。

この後、兄夫妻が戻ってくるのは8年後となります。
この間チカ姉は元の鞘の男性と結婚をし、甥っ子は遠縁へ養子に出ています。
イハが入夫を取り、子に恵まれ、安定した頃です。
兄夫妻が戻り、ふたりには4人の子がいて、一気に賑やかな家となりました。
そして間もなく母が亡くなり、4年後、末っ子の妹をお嫁に出すのを見届けてから
私にも縁があり、一度結婚をします。のちに離縁することになりましたが、
私は強く生きたいと願っていて、イハにも胸を張っていたい
そう思うのです。

写真は長野県信濃町 一茶記念館郷土資料館より


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?