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師友を持つと、10年経ったら読書に勝る。

島田信行 2000年度エディタウンゼント賞受賞者。
YANAGIHARAジム最高顧問 グリーンツダジムアドバイザー。

牧ボクシングジムから20歳でプロデビュー。8戦をプロのリングで
戦い一敗。引き分けが二つあった様に思う。

互いが意気投合したのは、福岡の後輩が日本タイトルに挑戦する
為大阪に乗り込んだ日、私はその応援へと大阪に行っていた。

当時の大阪府立体育会館での試合を観た後、南海ホテルだったか、
兎に角そんな名のホテルのバーで、一緒に呑んだ時の様思う。

ミットめがけてパンチを打つのは、ご存知辰吉丈一郎。

カリスマという言葉がモハメドアリ以外に似合うのは、日本のボク
シング界では彼しかいない。

我々は基本的に過去の栄華を話さないが、永年付き合うと訥々と、
島田さんから辰吉の表に出てない話を何度か、聞いた。

辰吉は大阪帝拳という名と、その後輩の為に戦った男でした」。

「デュラン、チャベス、タイソン、レナード等の一部の良い所をい
れて出来たのが辰吉」「愚痴や不満を言わなかった。ファイトマネ
ーや待遇面も一切口にしないし、言わなかった」等と聞いた。

さて。
私、柳原廣一はと言うとボクシングの最初の教え子がノンタイトル
戦で世界チャンピオンを完封、いきなり世界ランク5位に入る。

次に育てた選手は亀田直弥と言い、初めて会った時は4戦全敗だっ
た。この子は担当トレーナーがいない為、自然と私が担当し一気に
4連勝、6回戦に上がる。

亀田の6回戦での緒戦は、全国TVで「倒れざる男」とガッツ石松
さんから名付けられた、ダウン経験なし、筑豊ジムの上条選手。

筑豊にかませ犬で呼ばれたが、私は何も心配しなかった。亀田には
「勝つ、じゃない。何ラウンドで倒すかが課題だ」。

そう言って挑んだ試合で、亀田は3ラウンド、自身初のTKOで上条
を葬った。

次に、横浜光ジムで後に世界チャンピオンになる畑山隆則と共に、
エリート特待生とし、同じ寮に入った武田匡弘という選手がいた。

彼は横浜のジムの指導者の教えに反発し、畑山と共に住んでた寮を
飛び出て、故郷の北九州小倉南区へ帰る。

その後、再度血が騒いだか、小倉北区のG16ボクシングジムへ移
籍。私はそのジムの会長に請われ武田を指導する事となる。

武田は天才だった。

スパーリングで自分より身長が20cmも高い選手に、いきなり1R
早々20秒。左フック1発を打ち込みクルリと此方の私の方に来た。

おい武田。スパーまだ終わ・・・、というと相手が倒れていた。

武田との初めての会話は「右ストレートを教えて下さい」だった。

左はうまいが、右ストレートは普通の4界戦。

股関節の動きと、パンチを出すタイミングのズレを徹底して教え、
強く打てなかった右が強くなった。

武田は棄権負け1試合挟み、実戦無敗で6界戦に上がる事となる。

あの時はもう神がかっていた。
俺は何をやらせても出来る。師匠なんかいらない。
そう思っていた。

そんなある日、これで日本チャンピオンが獲れるんだろうか、と初
めて壁に当たった様な気が、し出した。
上を目指す人は、なんの世界でも必ずこうなる。

そしてつい島田さんに「ボクシングを一から僕に教えて下さいな」
と頼んだ。何故いきなり言ったのか、今でも分からない。

しかし、あのままだったら、私はあそこで止まっていた。

人にモノを教えられるのは、ボクシングも勉強も大嫌いだったのに
何故か島田さんには素直に言えた。

奥本貴之タイトルマッチの夜

渡辺二郎さんを世界へとサポートした大阪の名士、森川会長という
方に島田さんが頼んでくれ、森川会長が所有するジムを借り、心機
一転、新たにボクシングを学んだ。

その後も年に数度、大阪に行き過去を捨て、現代ボクシングを学ん
だ30歳代のあの頃から、私と島田さんは現在迄、一度も喧嘩をせ
ず付き合いをしている。

というのも、我々にはある「共通点」」がある。

いや、正確にいうと歳、顔や背格好以外、共通していない所を見つ
ける方が難しい、と言った方が正確かも知れない。

まず、お互い、異常に気が短い。

今はお互い歳を取り、怒る事も人の悪口も全く言わなくなったが
お互いに言えるのは、誰と話す時でも五分。威風堂々。

議員相手だろうが、年商百億の社長だろうが、対等に話す。

お互いに確認した事はないが、誰でも二本の手と二本の足だから対
等じゃないか、という思考からくるものなのかと思う。

たまにフツーの人では恐ろしくて経験しない事を言うと、その恐ろ
しい事を何故か必ず、どちらかが先に経験している。

とてもここでは書けないことばかりで、折角読んでくれてる人には
申し訳なく思う。

言いたい。ああー言いたい!しかし言えぬ(笑)。

島田さんがアドバイザーを務める、名門グリーンツダボクシングジ
ムの本石会長は、西日本ボクシング協会の事務局長で気鋭の人。

頭がキレて男前、真正ジムの山下協会長と共に、関西を切り盛りす
る敏腕会長である。

本石会長と電話をする時、過去数度となく、言われた言葉がある。

「柳原会長と喋ると、何か島田先生と話してる気がするんですわ。
不思議な気になるんです、いつも。島田さんと話してる様です」。

そう言われても困るが、声も似ていないし関西弁と北九州弁は、
僅かな共通点があるだけで、イントネーションは全く違う。

本石会長に言うと、自分でもよくわからない、と言うが島田さんと
一度「お互い喜ぶべきか、悲しむべきか」と笑い話した事がある。

歳を取り色んな勉強をしだすと、言葉の重みを知る。

例えば「類は友を呼ぶ」「朱に交われば赤くなる」と言う言葉。

綺麗な水の水槽に魚が多くいれば、汚い水を好む魚は、水槽から逃
げていく。

同じ水には同じ種の魚が泳ぐと同じで、人間も同様である事は経営
学書に載ってる、簡単な理屈だ。

お互い痛みに強く島田さんが「肘が痛い」と言うと、私は「それ長
引きますよ」と言う。

数日後、島田さんから電話があり整骨院に行って診てもらった、と
言う。

「よく運転出来ますね。肘の神経迄いって痛風が出てますよ」と言
われたそうだ。

私は言った。

「だから言ったでしょ。島田さんが肘が痛いて口に出す時は、靭帯
が切れてておかしくないんですよ」と。


普通なら、何と言う事ない会話かもしれんが、世界チャンピオンの
長谷川穂積をも診ていた、お亡くなりになった凄腕で高名な三宅先
生が言った、と言えば大阪、神戸の人は慄くと思う。

私がヘルニアで運転して、病院に行った時、北九州の先生から幾度
となく同じセリフを言われたが、そんな事を言われても我々は困る
のだ。

そりゃあ痛い。
確かに痛い。

しかし、痛い痛いと泣いて治るなら、痛いと叫び泣きもする。泣い
ても叫んでも治らんのに疲れる事して、意味あるのか、格好悪い。

私も肘靱帯断烈状態で、数週間気付かずミットをしたり、鎖骨が折
れてるのに2日寝たら治ると言い、その後入院したが同じ様な事を
言われたものだ。

そう言えば、大阪の天満のコーヒーショップで待ち合わせした時。

まだガラケーでメールしかできない頃、きたメールを見たら「あし
がいっぽんしかつかえず、おくれます、スンマセン」。

会うと、足の甲にレンガが落ち、粉砕骨折したそうだ。

いやいや、それ言うてくれたら、と言う私に「片足があります」。

私の文章をご愛読していただいてる方なら、そろそろお分かりかと
思うが、まるで大阪に柳原がいるのか、北九州に島田さんがいるの
かよく分からん、と言う摩訶不思議な関係が今日も続く。

そう言えば昔の事だが、こんな事を聞いた。

島田さんが運転する軽自動車が走行中、信号が赤になり停車した。
折しも運の悪い事に、一台の単車が横に並び暴走族の様に、煩く音
をふかした。

ウルサイと思い「コラお前、静かにできんのか!」と一括した島田
さん。

昔はどこでも、こんな怖いが間違った事を正す、おじさんが居た。

しかし・・・。

これを聞き「島田さん、もしそいつがコラ!言うてきたらどうする
んですか。しばかれて我慢するんですか?」

そう聞くと、帰ってきた答えはこうだった。

「最初にそいつがおって、僕が後で車で停まったんなら分かる。
しかし僕が先に停車して、後に来てフカシたんですよ。この怒り、
柳原さんなら分かるでしょ?」

「いや、違う」と言い、暫し考えた後、私はこう言った。

「うーん。確かにそりゃそうですね。これは筋の問題ですね」。

こうして日々、おかしい事があると誰にでもおかしいと怒り、正し
い事は正しいと言い、弱い人を陰で助けるがお互いが言わない。

長年の付き合いで、何故2人がこうなったか教育家として考えた。

まず家庭環境が酷似しすぎていた。

互いに悪い環境で育った上、父親はろくに話をせず、煩い事は言わ
ぬ放任主義。

母親は我々に全く愛情を与えず、島田家は兄、柳原家は弟を異常に
可愛がった。

何でも1人で考え、自然と愚痴も悩みも言えぬ環境で育つとメンタ
ルが強すぎる様に育つ。

この「すぎる」というのは良くない。

しかし済んだことは仕方ない、この様に大阪と小倉に性格が酷似
した人間が、幸か不幸か昭和に突如として、2人出来上がった。

よく喋り誰にでも声をかける私と、思慮深く、私がやりすぎたり脱
線すると、遠回しに見守るのは島田さんだけだと思う。

総理経験者を診る、すごい霊媒師の先生に、通算150人程の人を診
てもらったが、島田さんの件りだけ、不思議な事が書かれていた。

「こういちさんを、心配してみてます」。

いつも無茶ばかりする私に、時に寄り添い、時に遠回しに進言して
いただき、時に無言で傍にいてくれる。

なるほど、私はよく人に誰も解決できない事を頼まれる。

反社会性力に虐められた、警察の横暴があった、議員に一喝され
た、顔役に仕事を妨害されたetc.

私の様なある意味、ブッ飛んだ頭とこのメンタルがあれば、殆ど解
決できぬ事などないから、今まで断った事なくほぼ解決させた。

だから私はコンサルが出来るんだと思う。

しかし・・・、である。

そういう依頼は、島田さんからきた事がない。
書いていて思ったが、なるほどそういう事か。

似た者同士がお互い悩んだりせず、だから依頼する事がないのだ。

言っとくが我々は多分この先も、全く変わらず弱気を助け、強気を
挫く。煩いバイクにも注意する。

「煩い!公道でアクセルフカスナ!」と。

大阪と北九州に、二卵性双生児に見えて実は全く違う男がアト50年は生きている。

最後は真面目に締め括る。

これを師匠と別に、師友とも言う。
ただの友とは違う。

師友はたくさん持て。お金で買えないもの、それが友情だ。

友情は10年経ったら読書に勝る。

そして・・・。
お互いシャイで普段は言えないから、ここで言う。

「島田さん。報酬も出さないのにいつも本当にありがとうございます。いつか約束を達成できたら。だから健康でいてくださいね」。

注釈  本人の同意を得ずに書いてます。   
文責  YANAGIHARAボクシングジム 柳原廣一


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