泰然と喜怒哀楽。ふと思う事。
歳を取れば、当たり前だが若い頃より、喜怒哀楽というものが少なくなる。
特に私は、子供の頃から怖い時や驚いた時、それを全く態度に出さぬ親父に育てられたからか、物事には一切動じない。
顔や態度に一切出さない。
長男の私だけは何故か、驚くとものすごく恥ずかしい事の様、育てられた。
しかし喜怒哀楽はあった。
21歳の時、北朝鮮籍で在日の、私が兄の様に思ってた人が、交通事故で死んだ。
普段は絶対泣かない私が、通夜の席で荒れ狂い、泣いた。
普段、泣きべそばかりかく私の同級生が、泣いてないのを見て「お前は在日の同胞やろが!なんでそんな普通にしとれるんか!」。
そう言うなり、通夜の席でそいつを蹴飛ばした。
すると、一番悲しい筈のアボジ(韓国語で父の意)が、私の暴れる体を止め、アボジの胸に、両腕で引き寄せた。
「柳原。お前の事を一番可愛がっとったもんなあ」。
そう言って私の頭を撫でてくれた。
私はアボジの胸で、思いきり泣いた。
日本人は朝鮮人の葬儀に出れないしきたりなので、仕方ないと思ってたら、アボジが「柳原は特別だ」と言い、葬式に入れてくれた。
それからもう、30年以上前の事だと思うと、時が経つのは早い。
人の死は、歳をとるたび慣れてくるので、この時以来え人前で泣いたことはない。
儒教を覚え出し、最近外部に対して、恨みつらみがなくなってきた。
若い時、散々金儲けをして東京、大阪で豪遊したからか、今はお酒も飲まず、趣味もない。
これは安岡正篤先生の言葉であるが、まさに正鵠を射ている。
喜怒哀楽の、怒、が特に先行した私は、心理テストで「短期凶暴粗暴!お前みたいに三つ当てはまるのはそうそういねえんだよ!」。
18歳の審判の時、家栽の判事からそう怒鳴られた私が、今は殆ど怒らない。
人生とはいい意味で、麻痺すれば鈍感力が優れるのか、素敵な人間になれる気がする。
しかし。
子供や青少年を、プロボクシングを通じて教育をしてると、一つだけ悔しい事がある。
皆の周りにも結構いると思うが、自分の事を絶対に言わない人。
質問に答えない人。
あれは何でだろう?
大凡、若いのに喜怒哀楽がない人は、私程の歳になると、友もおらず、殆ど相手にされなくなる。
所謂、何を考えてるのかさっぱり分からない、という手の人は、何故もっと心を開かないのか、悔しくてたまらない。
決して悪い人ではないのだが、何故か心を全員に閉ざす。
そうなると、此方も段々、話しかけなくなる。
人間という者は、泰然としていなければならない。
これは、いざアクシデントや混乱が起きた時こそ、その人の度量と肚が分かるので、そういう時、驚かず物事に動じてはいけない、という意味である。
大事を成す人は、大抵こういう人らしい。
しかし若いのに、何をやっても喜怒哀楽が表に出ない人は、教えようがない上、救いようもない。
それどころか、若しかして此方の指導に問題があるのか、と思う時もある。
会社でも、ミスの原因を聞くと黙り込むのがいるが、こういう者は性質がわるい。言い換えれば卑怯だ。
この手のタイプが子供の頃、喜怒哀楽が少ないパターンに多い、と感じる。
態度に出さぬとも、言葉や目に出るのが素直な子で、うちのジムのホープ、濱村悠太郎は、試合で倒そうとする時、目に出る。
相手にバレるからやめろ、と言うが、素直だから目に出るので、人間としては悪いことではない。
YANAGIHARAジム初の日本ランカー、松尾佳彦は、ガキの頃から連れてきたが、まあ兎に角、喜怒哀楽の多い子だった。
しかし今、尚、優しくて強い男になった。
喜怒哀楽のない子は、多分に家庭に原因があると思う。
自分で物を考えない子にしないでほしい。
子供は宝である。
無口と泰然は、絶対に違う。
人はもっと感情を持つべきだ。
そうでなければ、何も気付かず何も達成しない。
世界チャンピオンは、リングでは無表情だが、普段は喜怒哀楽が多く人情がある。
世界チャンピオンでなくても、人はそうでなければならないし、喜怒哀楽が少なくなれば、それを探しに行くべきではないだろうか。
維新や、世の中を動かすのは、常に何らかの情から始まると思う。
そういう子が多くなればいいな、と思う。
そういうふうにするにはどうすればいいか、同志と共に考えていこう。
私は些細な事でも諦めず、分からない事や納得できない事は、こうして追求して、答えを求め死んでいきたい。
死ぬ時は前のめりが良い。
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