見出し画像

マンガの専門学校について考える1

あるマンガ専門学校の教務の人と話する機会があった。それは雑談だったけどそれ故遠慮がなく、いろいろ考えさせられた。
教務というのはクラスの担任だが事務方。プロフェッショナルではないので授業を教えたりはしない(たまに教える人もいる)。教えるのは講師。ボクは講師である。

教務「この間、学校で編集部批評会をしたんですよ」
ボク「はいはい」

編集部批評会…出張編集部などともいうが、漫画の講座のある専門学校や大学へ編集部部員が出向いて人材発掘をするイベントである。出向いて原稿をみるのだ。学校によってはソレを学生募集の売りにしたりしてる。

教務「ボクたちとしては、この子ならいい評価受けるだろうという子を出すんです」
ボク「はいはい」
教務「ところがね、すげなく返されるんですよ」
ボク「へえ」
教務「どれもね、キャラクターをもっと強く出せって言われて」

ボク「ほぉ」
教務「中には細かいエピソードをつないで楽しんで貰うマンガもあったのに。それも水準あったのに。
あれは一体なんなんでしょうねえ。なんで編集者はそういう所見ないんでしょう?」

この教務は学生の行く末を真面目に考えて、マンガの全体像を真摯に考えるから、こういう悩みにぶつかってしまったのだ。つまり…これっていまの日本マンガ業界が抱える問題点なんだよね。

ザックリ言う。
★編集者は即金になる漫画以外には興味をもたない。
☆金になるのはどぎついストーリーとどぎついキャラクターのマンガ
★編集者に漫画家を育てる気はない(一部を除いて)
今の日本のマンガ業界はこうなってます。

即金というのは人気が出ると言うことではない。単行本が売れる…とも少し違う。アニメ化されたりドラマ化されたりゲーム化されたり…の二次使用化が見込まれるという意味だ。大きな出版社はテレビの制作会社とコネクションがあって制作会社とか広告代理店のもってる枠にはまるようなマンガを、互いにいつも探している。
ボクもいくつかの編集部批評会を横からズーーっと眺めてきたが、やってくる編集者は「エディター」でなく「プロデューサー」みたいな顔をしてる。一体この人たちはどこ向いて生きてるんだ?と不思議な思いになったのも、一回や二回ではない。

「どぎついストーリーやキャラクターは時代が求めるのだろう。漫画家はそれに応えるべきでは?」
と、思う人がいてソレは一理ある。
評論家の佐藤優が
「今の歴史好きはみんなキャラ萌えだ」
と喝破していた。歴史の文脈関係なしにキャラクターばっかり注目してる、と。
キャラクターにしか注目しないと例えば、坂本龍馬が現代日本の東京にいたら?なんて妄想が出てくるわけだ。
坂本龍馬が生まれて生きて何かの実績を残せたならそれは歴史の流れの中の言ってみれば必要な流れでそうなったわけで。現代の東京にいてもチンピラで生涯を終えるだろう、というのが率直な気持ちだ。今の時痔に不必要だから。
佐藤のこの観察は漫画界でも成立していて、いろいろな会社が出しているマンガ日本の歴史が、かつては通史一本槍だったのが最近は人物ごとの分冊に移行している。
storyとしてのHistoryを読めなくなってきているんですね。

だが、それこそ編集者が漫画家を育てる気がない証拠みたいなものだ。そういう時代だから逆目を狙ってスト-リーをあらたに作り上げていくのが編集者の役割でしょう。
現実はどうなってるかというと、新奇なキャラクター設定で始めたマンガも新奇さが馴染むと、突然見たようなストーリー展開になっていく。そういうのって四十年くらい前に『キン肉マン』がやってなかった?なんて話はゴロゴロある。
ストーリーの作り方をシド・フィールドがごくわかりやすいように説明始めてから40年。以降アメリカ映画だけでなく日本ドラマのストーリーハウトゥ本なんかいっぱい出ている。作家に合わせたものを選んで一緒に新奇なストーリー作りをしないから、再生産ばっかりになっている。

上で(一部を除く)という書き方をしたのは、まだそういう編集者はいると思うからだ。講談社のマガジン系のいくつか、週刊少年ジャンプの一部、少年チャンピオン編集部からそういう波が伝わってくる。それこが救いだ。


長くなりそうなので稿を改めます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?