東京雪 1

 東京の街に雪が降る、風が吹く、電車が止まる。人混みの中で息を吐く。肩に食い込むギターの重みが僕を急かす。
 この曲を書き終えたら変われるだろうか、報われるだろうか……。いったい何を変えたいのだろう、僕は何になりたいのだろう、最近少しわからなくなる。この街に来た時には確かにあったあの気持ちが、今は時々、わからなくなる。

 夜の公園、並んで見上げた星空、懐かしい景色を思い出していた。君と見たあの光を、思い出していた。

 電車はしばらく来ないようだ。ホームから身を乗り出して天を仰ぐと、そこには暗雲の絨毯が敷き詰められていて、それを眺めていると無性に心細くなる。ホームにいる人たちはどこか苛つきながらも、このちょっとした非日常を楽しんでいるようにも見える。

 空を見上げたのなんていつぶりだろう。この街に来て初めて借りたアパート、東京に来たその初日、ベランダで煙草を吹かしながら見上げたのを思い出す。セブンスターの煙が空に向かって立ち上ってゆくその向こうに、星がぼんやりと滲んで煌めいて、それが美しくて、この景色を目に焼き付けようと必死だった、それだけは覚えている。
 あの時のことが妙に懐かしい。あれからどれくらい経っただろう。遠い昔にも思えるし最近のことのようにも思えてくる。それくらいあっという間だったんだ。

 その日から僕は音楽を作り続けた。当時の僕にはそれしかなかったし、やはり今でもそうだ。これを続ければいつか何者かになれる、そんなふうに思ってたんだ。
 作った楽曲たちは片っ端からネットの海に放流し、それはたくさんの人たちのもとに届いた。ライブも繰り返し行い彼らの生の熱も感じた。僕の音楽は彼らの胸に届き彼らの心を満たしたはずだ。
 でも、僕の心が満たされることはなかった。楽曲を作り終え僕の手を離れるその刹那にどうしようもない虚しさに襲われた。この曲を聴いて感動する人、悲しむ人、救われる人、不快に思う人、さまざまな感情の奔流に晒されるうちに自分自身の感情の居場所がわからなくなっていった。この喜びはいったい誰のものなんだろう、あなたの抱く嫌悪感は僕が感じたものと違うのだろうか。僕が星を見て感動するのは、先週見た映画のワンシーンに自分を重ねているだけなんじゃないのか。何のために作っているんだろう、僕の心は、誰のものなんだろう。
 そんなこと、とっくにわからなくなっていて、気づいた時には何も作れなくなっていた。

 同じように足止めを食らったサラリーマンたちがホーム上で群れをなし、三者三様のやり方で湧き上がる感情を窘めていた。こんな、普通の大人になりたくなかった。有象無象の一部に組み込まれるのを想像するだけで、言いようのない不安と嫌悪に襲われた。だから僕は逃げたんだ。逃げて逃げて、逃げきったと思ったその場所に音楽があった。もちろんその選択を後悔はしていない。だけど、今、ほんの少しだけ、彼らの普通さを羨ましく思ってしまう自分に気づいたんだ。

 ――あの日の僕がまだ歌うから、あの日のままじゃ帰れないんだ

 もう、帰ろうと思っていた。自分にはなんの才能もなくて、努力も嫌いで、そんなことは自分が一番よく分かっていた。他のミュージシャンたちが努力をしてスキルを上げて夢に近づいていく時、僕はそれをしてこなかった。僕は取り残されていった。それでも何者かになりたくて、自分に言い訳をして、やっぱり何者にもなれなくて、焦りだけが募って、それでも音楽に縋ってここまで来てしまった。

 ――何もないんだ、分かってたんだ、それだけの僕が

 不意にポケットのスマートフォンが震える。

 画面に映し出されたのはかつての友人の名前。その光は降りしきる雪をキラキラと反射して、まるで星空を切り取ったように、僕の手元にあの日の情景を浮かび上がらせていた。懐かしい口癖がそこにあって、あの日の僕と君がそこで笑っているようで、僕はどうしようもなく寂しくなって耐えきれなくなった。

 ――歌詞を書いた、君を紡いだ

 雪の降る街を歩き出す。街明かりが僕の涙に乱反射して煌めいている。どれくらい歩いたら涙は乾くだろうか。
 夜の公園、並んで見上げた星空、懐かしい景色を思い出していた。ポケットに手を入れてその温もりを感じる。アプリを立ち上げて、かじかむ手で一文字ずつ、時間をかけて打ち込んだ。

 「まだ、歌えるかな」

 僕の囁きは電車の通り過ぎていく騒音に溶けて消えていった。遮断棒が持ち上がるその三秒の間に、歌詞がワンフレーズ思い浮かんだ。涙はもう乾いていて、開けた視界の向こうには、あの日と変わらない星空が広がっていた。


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