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老松克博『空気を読む人 読まない人  人格系と発達系のはなし』講談社現代新書

著者は、精神科医で、臨床心理士、ユング派の精神分析を行う。ほとんどの人は、人格系と発達系のどちらかに分かることができるという、著者の考え方を提示している。

会議の場で、空気を読まないで自分の思っていることを言う人と、空気を読み過ぎてイヤな気分となり、怒りを覚える人とがいる。空気を読まない人と空気を読む人とがいるが、どちらのタイプもいる。しかし、自分は関係ないと考えるのは間違いで、程度の差こそあれ、どちらかのタイプに当てはまる。

空気を読まない人は、周囲と衝突して怒りや孤独にとらわれる。空気を読む人は、人の顔色をうかがううちに周囲の評価ばかり気になり、いつも同調圧力を感じる。それぞれ生きづらさを抱える。この生きづらさを解消することを目的とする。

将来を思い悩んだり、過去を悔やんだり、人の和を乱すことを恐れたり、周囲の顔色をうかがいながら人間関係を築くことは普通のことである。それが極端になれば「人格障害」と呼ばれるかもしれないが、そこそこの程度におさまっていれば生活に支障はない。こういう傾向の「普通の人」を著者は「人格系」と呼ぶ。

将来や過去のことにはあまり興味がなく、現在のことに心を奪われやすく、目の前のことに熱中すると、つい周りが見えなくなる。熱中しすぎて、ほどほどでとめられず、気づくと周囲から浮いてしまう。そういう傾向がよほど極端になれば「発達障害」と呼ばれるかもしれないが、そこそこの程度なら、よくいる人で、ユニークな少数派である。このような人たちを著者は「発達系」と呼ぶ。

人格系にも、発達系にも、濃い薄いという程度の差があり、グラデーションのように人によって傾向の濃淡がある。人格系、発達系という分類は、病気や障害のレッテルを貼るためでなく、すべての人にある傾向である。極端な人からどちらのタイプかわからないくらいの人までグラデーションのように程度の差がある。

残念なことに、人格系と発達系はおたがいに嫌い合うことが多い。二つの世界をお笑いの世界にたとえて「人格系はツッコミ」「発達系はボケ」と考えてみることができる。いさかいにまで発展する理由は、「心のしくみ」に潜んでいる。

ひとりの人が人格系と発達系の特徴を同時に併せ持っている。二種類の特徴のうち、どちらのほうが相対的に強いかという傾向によって、それぞれ人格系、発達系と呼ぶ。また、相手次第で、人格系と発達系が入れ替わる。夫は極端な発達系、妻はほどほどの発達系である場合、妻は夫の顔色をうかがいい、先回りして夫のお世話をすることで人格系となることがある。

人は心のなかで「もうひとりの私」(無意識)とぶつかり合っている。意識のフィールドの下に無意識が広がっている。無意識は意識のコントロール下にはない。無意識は意識と別の意志を持っている。意識を「私」とすれば、無意識は「もうひとりの私」である。

「もうひとりの私」は、多くの場合、「私」と気が合わない。人は誰でも、人格系の部分と発達系の部分からできている。人格系の人は、自分の発達系の部分を忘れるか奥底に押し込める。発達系の人は、自分の人格系の部分を心の奥に押し込める。表に出ている「私」は自分と気が合わない部分や、嫌いな部分を奥底にしまいこむ。

「もうひとりの私」が実際の人間に重なって現れた(投影された)ときに、難しい問題を引き起こす。目の前の相手に「もうひとりの私」が映し出されると、「私」はその相手のことを嫌いになってしまうことが多い。しかし、「もうひとりの私」を意識した途端、投影は消えてなくなる。

必要のない対立を解決するためには、現実の相手と、スクリーンに映った「もうひとりの私」とを区別しなければならない。必要なのは「投影」で「もうひとりの私」ではないかと見直すことである。「もうひとりの私」は闘う相手でなく、対話の相手である。「もうひとりの私」には、まだ選んだことのないすべての選択肢が集まってできている。

電話応対が苦手な事務員は、同僚から冷ややかに見られていると確信し、つらい思いを悶々としていた。ところが、また電話がかかってきた。電話の相手の話が要領を得ない。相手が事情をきちんと整理して話してくれないので、少しずつ復唱しながら確認し、悪戦苦闘していると、同僚が肩を叩き、電話を代わってくれた。相手の話を細かく復唱したので、周りは電話の相手が言いたいことが見当つき、その件に詳しい同僚が代わって電話に出た。

この経験からヒンを得た事務員は細かく復唱するようになったので、自分の持ち分と思われる要件に関しては、まったく嫌そうな顔をせずに代わってくれるようになった。今まで感じていた周りの悪意や圧力は思い過ごしだったことに気づいて驚いた。同僚たちに「もうひとりの私」の姿を見ると、結果的に電話を同僚に回しにくくなり、自分ひとりで処理しようと悪循環に陥っていただけであった。

「もうひとりの私」に気づくことによって、現実の人間関係も、改善の方向に向かう。他人とのぶつかり合いだと思っていたものは、本当は「私」と「もうひとりの私」とのぶつかり合いである。

投影によって心の外に移されていたぶつかり合いを、本来のぶつかり合いの場である心の内に戻す。ぶつかり合う相手も他人ではなく、本来の相手である「もうひとりの私」に戻す。他人との関係は、心のなかの「もうひとりの私」との仲直りと連動しなければ改善しないからである。

家に引きこもって荒れている子どもが、親に対して難題をふっかけてきたとき、子どもは親の行為に反応するのではなく、その背景にある目に見えない親の「あり方」に反応する。親の「あり方」が信頼できるものであれば、子どもは暴れることはない。子どもから見て、親の「あり方」に敬意を持てるようになれば、子どもは礼儀を欠いた行動をしなくなり、家族の人間関係は改善する。

他人に本当に敬意を払えるのは、自分のなかにいる「もうひとりの私」に敬意を払える人に限られる。心の奥底にいる「もうひとりの私」とどうしたら仲直りできそうか、さまざまな可能性を模索する姿勢こそ敬意の有無が現れる。

無意識と対話する深層心理学の技法であるアクティヴ・イマジネーションについても説明されている。人が心の内で見たり触れたり経験したりする像である「イメージ」を「想い浮かべる」ことで、「私」は「もうひとりの私」と対話することができる。

本書により、「人格系」と「発達系」、「私」と「もうひとりの私」という考え方を知っておくことだけでも、日常の人間関係のヒントになるように思う。「人格系」と「発達系」はどちらもいないと困るし、また、全員が「人格系」だとだれかが「発達系」に変わることも起きてしまうことがある。仲間の特徴をよく捉えて、チームづくりをする必要がある。そのためには、「私」と「もうひとりの私」との敬意を払った対話も必要となるのでは思う。




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