山内朋樹

美学、庭園論。京都教育大学教員、庭師。「なぜ、なにもないのではなく、パンジーがあるのか…

山内朋樹

美学、庭園論。京都教育大学教員、庭師。「なぜ、なにもないのではなく、パンジーがあるのか」(『アーギュメンツ』#3、2018年)。訳書にジル・クレマン『動いている庭』(みすず書房、2015年)。

最近の記事

このところ身のまわりのいろいろでアナログ化を進めている

タイトルのとおり、このところ身のまわりのいろいろでアナログ化を進めている。 世のなかがSociety5.0とかSTEAM教育とか言ってるときに反時代的な話だが、理由は単純でスマホからもう少し離れようと思ったからだ。SNSやネットサーフィンやYouTubeに随分と時間を割いてしまっていたから。 まずは寝床でスマホを触るのをやめたいと思い、安い目覚まし時計を買ったのだが、これがきっかけになってさまざまな箇所に飛び火した。 タイムラインに差し込まれる欲しいかもしれないもののリ

    • 庭が消えゆく時代の庭

      *以下は2021年7月28日の『京都新聞』夕刊「人文知のフロンティア」に掲載された記事です。  勝手口のドアを開けると小さなグミの木があった——四歳から十三歳の秋まで住んでいた、子どもながらに狭く古ぼけたように感じていた長屋状に連なった社宅の庭の話だ。  暑い夏の日にゆらゆらと赤い実が揺れるその木に登って梢に手を伸ばし、渋いばかりでたいして旨くもない果実を口に含んだ。グミの木の隣には小さな家庭菜園があって、母はほんのわずかなその土地で収穫したトマトやトウモロコシを食べ盛り

      • 比喩的連続体としての嗅味覚世界

        うまいエスプレッソを出すそのカフェには、スペシャルティを名乗る浅煎りから中煎りくらいの豆がいつもとり揃えてあった。というよりその店の本体は豆の焙煎と販売で、いつも異なる数種類の豆が、風味を描写する説明書きとともに並べられていた。 たとえば「シトラスの酸味」「蜂蜜の甘味」「白桃の風味」というように。そこでコーヒーは、ほとんどなにか別の食べものや飲みものの香りや味わいによって記されている。 ある日、この言葉たちが気になって、すでに顔見知りとなっていたバリスタと話し込んでしまっ

        • 海の香りを探している

          海の香りが含まれているものは、海恋しさに涙ぐんでしまうので冷静に判断できない。 海が好きなのになぜか内陸部に住んでいる。海はあまりに遠い。なので、初夏から初秋の頃にはしょっちゅう海に行くことになる。ただでさえ遠いのに、これが冬ともなれば季節的にも遠く隔てられていると感じることになる。 ふだんから気にしているわけではないけれど、もしかすると、ずっと海の香りを探しているのかもしれない。 * 地下鉄銀座駅から四丁目交差点に上がったとき、くっきりと感じられた海の匂いは忘れられ

        このところ身のまわりのいろいろでアナログ化を進めている

          柑橘となにかのドンシャリ——食べるを考える(2)

          ドンシャリが好きかもしれない。この春、唐突に気づいてしまったのだが。しかも柑橘のように鮮烈なやつ。ずっと知っていたような、この春気づいたような。 ドンシャリと言ってもヘッドフォンやオーディオの特性の話ではない。しっかりとした低域にすがすがしい高域が乗っているドンシャリなのだが、いま思いつくのはガトーショコラやブラウニーにオレンジピール。最高のデザート。ただのチョコレートではねっとりとした甘味のなかに沈みこんでしまうところ、闇夜を切り裂くオレンジピール! このドンシャリ。

          柑橘となにかのドンシャリ——食べるを考える(2)

          プロ野球はぼくらを贅沢さへと誘っている

          新聞を契約したらチケットをもらったんだとか、なにかの株の配当で席が確保されてるんだとかで、甲子園球場でのプロ野球観戦に誘われることがある。 梅田で適当な軽食を買って阪神本線に乗り換える。改札に近づくにつれて白や黄やピンクの地に黒のストライプが入った帽子や法被やメガホンが目につくようになる。まだ先は長いのに——大阪は本拠地ではない——あの球場へと向かう人々があちらこちらにいる。甲子園駅にいたるまでの各停車駅で各地の戦士たちが続々と合流してくる。車内の熱は否応なく高まり、声があ

          プロ野球はぼくらを贅沢さへと誘っている

          リーフの向こうに

          ターコイズからインディゴ、そしてネイビーへと移り変わる深淵の手前の谷に、視界を覆い尽くすほどの青や緑や黄やピンクの色斑が現れる。水面を漂うたよりない体はゆっくりと沖へと流されていくのに、腕も足も動かすことができず、まばたきもせずに流されていた。直下数メートルに極彩色の珊瑚のひろがりがあったからだ。 そのときはじめて、深い深い海の底に美しい龍宮があるのだ、という昔話のリアリティを感じた。色彩の強烈さに恐怖も消えてしまい、どこまでもひろがる色斑の平原を追って、ただただ彼方の深み

          リーフの向こうに

          ヤンキーたちは絶滅したのだろうか——失われた地元を求めて(1)

          播州弁というものを喋っていたはずなのだが、大学に入って忘れてしまった。 大学で出会った友人たちからことあるごとに怖い怖いと言われ続けたからだ。相手のことを「自分」と言い、語尾が「とんけ」だったような気がするのだが、もはや二十年以上前までしか使用していない言語体系なので忘れてしまった。 「自分最近大学行っとんけ?」…みたいな? いや、さすがにこんなキツい喋りかたしてなかったと思うんだけどもはやわからない。いま文字面を見るとただの田舎者にしか思えないのだが、とにかく友人たち

          ヤンキーたちは絶滅したのだろうか——失われた地元を求めて(1)

          理念的パスタのゆくえ——食べるを考える(1)

          料理とは、つくるものであって食べに行くものではなかった——ほとんどの場合。 大学生になり、はじめて一人暮らしをはじめたぼくは、母の苦労も知らずとにかく料理できることが嬉しくて、ほぼ全財産をキッチン用品に投入し、生きるためでもあるけれど、毎日なにかをつくっていた。 なかでも昼食はほぼ毎日パスタだった。 ともかくたまたまコンビニや本屋で目にとまったレシピ本を買っては、見よう見まねというか、読みよう読みまねというか、下手なりにひたすらにつくったのだった。 読んではつくり、食

          理念的パスタのゆくえ——食べるを考える(1)

          ぼくのおばちゃん性

          よくわかんないんだけど、おばちゃんたちに服を褒められることがある。 おばちゃんといっても、ぼくがすでにおっちゃんなので、そのおっちゃんから見てのおばちゃん、いまだおばあちゃんではないうら若き女性たちのことである。 褒められるといっても、小綺麗な格好だと褒められるのではない。 たとえばぼくは、腰回りから腿のあたりはだぶっとしていて足首にかけてすっと細くなる、なんと呼べばいいのか知らないが、乗馬ズボンが太くなったようなラインのパンツ(もちろんズボンのことです)をよく履くのだ

          ぼくのおばちゃん性

          カフェ神学

          カフェ神学というものがある。 ぼくがそう呼んでるだけだけど。 カフェで本を読んだり原稿を書いたりしていると、隣に声の大きなおじさんと連れの兄さん二人が入ってきて、椅子に座るなり煙草を吸いはじめる。どうやら話題はスロットについて。パチンコ屋の半分を占めるアレである。 今日打ってきた新しい台について、機種の特性、他の機種との違い、あれがどうなったときあれがこうなる。店の特徴や曜日と場所の設定について。よどみなく喋る。ものすごく詳しい。驚くほど。 対になって喋っている兄さん

          カフェ神学

          雑草みたいにエッセイを

          ここにはなんでも書いていくんだ。 「いくんだ」なんて子どもみたいに、 宣言しないと書けないなんてこと、あるんだろうか。 とにかくここには思いついたことを、なんでも書いて、 試してみたい。 まともな話題を書くつもりは、あんまりなくて、 とにかくふとしたときに、ハッと思いついて、ザッと書いてみたい。 どれがかたちになるかはわからない。 ときには庭のこと、書いてるもののこと、制作のことになる。 ときには食のこと、旅行のこと、風景のことになる。 というふうに、雑多な生活のまわ

          雑草みたいにエッセイを