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庭が消えゆく時代の庭

*以下は2021年7月28日の『京都新聞』夕刊「人文知のフロンティア」に掲載された記事です。

 勝手口のドアを開けると小さなグミの木があった——四歳から十三歳の秋まで住んでいた、子どもながらに狭く古ぼけたように感じていた長屋状に連なった社宅の庭の話だ。

 暑い夏の日にゆらゆらと赤い実が揺れるその木に登って梢に手を伸ばし、渋いばかりでたいして旨くもない果実を口に含んだ。グミの木の隣には小さな家庭菜園があって、母はほんのわずかなその土地で収穫したトマトやトウモロコシを食べ盛りの子どもたちのおやつにしていた。
 驚くほど狭く、決して美的とはいえないそんな庭が、ぼくが記憶している最初の庭である。

 いま思えば、どれほど小さいとしても庭があったということそのものが贅沢なことだったかもしれない。歴史的庭園や商業施設の庭を除けば、生活とともにある庭は多くの人々にとってリアルな対象ではなくなりつつある。マンションや長屋に居を構え、土地を囲うことさえままならないぼくらにとっては。
 人の暮らしから庭が消えていく。そんなことを微塵も考えていなかったぼくは、二十歳過ぎの学生時代になぜか庭師のアルバイトをはじめ、勢い余って独立してしまい、研究の傍らいくつもの市井の庭にお邪魔することになった。
 子どもたちが小さい頃に植えたどんぐりを大きな木に育てた雑木の庭、亡くなった夫との思い出に満たされた追憶の庭。どの庭も庭師が手がけたものではなかったけれど、家人がときどきに植えた植物と、思いつきのような手入れの積み重ねによってつくられた素敵な庭だった。
 みなそれぞれに庭を慈しみ、庭にいくつもの記憶を託し、庭とともに生きていた。そんな庭と人のドラマに間近に接することができたのは幸運だった。それは消えゆく庭の最後の残照を見るような幸福な経験だったのかもしれない。
 こうした庭の物語は、庭園思想や庭の造形的な構造を理解しようと試みているぼくにとっても、それだけで研究対象にするのは難しい。日々の手入れの厚みによってつくられる市井の庭は、読解すべき言葉も文章も、造形上の特質を裏付けるための写真も図面も、なにも残さず静かに消えていくからだ。それでも、そんな庭と人の物語を書き記したいと願っている。

 庭が消えゆく時代——そんな時代に庭をテーマにしてしまったからだろうか? それとも大学院生の頃に翻訳したフランスの庭師ジル・クレマンの著作『動いている庭』の影響だろうか? こうした市井の庭の他に、つい気になって写真を撮ってしまうのは、庭とは言いがたい都市の空き地や道路の端、地方の放棄地などに生い茂る草花の風景だった。それは、言うなれば庭を持たないぼくらが日常的に垣間見る、ぼくらの生活とともにある庭である。
 人々が顧みない雑草の風景に新しい庭のヴィジョンを見いだしたクレマンは、人が庭をデザインするのではなく、時々の植物の分布にしたがって庭をつくる「動いている庭」という手法をつくりだした。植物は花をつければ種子を飛ばし、風や昆虫や鳥などに媒介されて毎年新たな場所から生えてくる。そのとき、庭のかたちにあわせて植物を管理しようとするのではなく、むしろ植物の動きにあわせて庭のかたちを変えてみる。庭は、植物の自由か人間の支配かという飽くなき闘争の場ではないのだから。

 もう一歩進めるなら、これは今後増えていくことになる空き地や放棄地の管理についても言えることだろう。空き地や放棄地の管理者の多くは、有象無象の雑草を放置するか根こそぎにするかの二者択一以外にはほとんど選択肢を持っていない。だから街角では、雑草や雑木に覆われた土地が秋の草刈りで突然更地になり、初夏に再び草木に覆い尽くされるのを繰り返し見ることになる。
 おそらく重要なのは、放任か根絶かという二つの選択肢のほかに、いつ、どのように、どの程度働きかけるかというニュアンスに満ちた具体的方法をいくつも創造していくことだ。それは人間をも含めた雑多な種の意図がひしめきあうこの放棄地を庭ならぬ庭にしてしまうことであり、放任か根絶かの二択問題の欄外に共存の技法を探求することだ。
 草の生い茂る空き地や放棄地に園路を引いていく、ひとりでに生えてきた見知らぬ草木とともに庭ならぬ庭をつくりあげていく。それは消えゆく市井の庭で日々おこなわれてきた実践そのものではないだろうか?
 ふと見ると放棄地の奥へと誘う道がついている。つる植物に覆われていた花が見えるようになる。ある区画の草だけが刈りとられている。たったこれだけのことで、道行く人は足を止め、犬の散歩に来た人は草地に踏み入り、子どもたちは遊びはじめる。
 道端に鬱蒼と茂る草花をぼくらの生活とともにある庭として見ること。原色のグラフィティがギラつく壁面の前に揺れる草花、コンクリートの残骸の隙間から萌え出るイネ科植物、樹木のまわりに群島のように刈り残される草むら。庭が消えゆくこの時代の庭のリアルがそこにはある。そう、庭は消えゆくとしても別様によみがえる。庭のかたちはひとつではないのだ。
 放棄地をあたえたまえ、それはわれわれの庭である。

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