見出し画像

プロ野球はぼくらを贅沢さへと誘っている

新聞を契約したらチケットをもらったんだとか、なにかの株の配当で席が確保されてるんだとかで、甲子園球場でのプロ野球観戦に誘われることがある。

梅田で適当な軽食を買って阪神本線に乗り換える。改札に近づくにつれて白や黄やピンクの地に黒のストライプが入った帽子や法被やメガホンが目につくようになる。まだ先は長いのに——大阪は本拠地ではない——あの球場へと向かう人々があちらこちらにいる。甲子園駅にいたるまでの各停車駅で各地の戦士たちが続々と合流してくる。車内の熱は否応なく高まり、声があがりはじめ、いよいよ最高潮に達するところで、熱狂に憑かれた人々が西宮は甲子園駅へと解き放たれる。

いたるところに今晩の出来事をともにする人々がいる。見た目も雰囲気もノリもまったく異なる人々。こんな奇妙な連帯と高揚が平生の街に充満することはほとんどない。行き交う人々とすれ違いはしても目もあわせず、スマホ片手に伏し目がちに歩く日常では、誰も彼も何を考えているのかわからない。あまりに数が多く、一人ひとりの年齢も性格も境遇も悩みもそれぞれに複雑で共有できるものなどほとんど持ちあわせていないのだとすれば、ようするにどうでもいい。そんなよくわからない群集に認知コストを使うくらいならiPodで音楽でも聴いていよう。しかし、いまこの街には、ひとつの出来事を共有することになる巨大なトライブが結集している。

球場からは遠くラッパや太鼓の音、そして、巨大な人々のどよめきが響いてくる。試合はすでにはじまっている。階段を抜けてスタンドに上がる。強烈なライトが薄闇のなかにスタジアムだけをくっきりと浮かび上がらせている。

見知らぬ人々の熱狂のなかで、適当な軽食をつまみながら光り輝くスタジアム上空の青い闇を見つめつつ、とりあえず生ビールを注文する。ぼくは、言ってしまえば、甲子園特有のぬるい浜風が吹く乱痴気騒ぎのスタンドで、ただビールを飲んでいるのが好きなのだ。トライブの構成員もさまざまである。

テレビ中継と球場での観戦が異なる点のひとつは、守備につく外野手たちとのさまざまなコミュニケーションにあるらしい。ホームランを打った外野手が守備につくとき、選手はスタンドからの拍手と喝采で迎えられ、手や帽子を掲げてやってくるさまは英雄の如くである。しかしながら不覚にもチャンスを潰した選手を迎えるのは罵声とブーイングであり、ときに空き缶やゴミなのだ。「ゴルァ!〇〇ーッ!ケツでかいぞッ!こっち向かんかい!」。

観客たちは好き好きに叫び、嘆息し、怒っている。観客席は選手たちのいるフィールドにくらべて想像以上に高い。人々はすり鉢状の高みからフィールド全体を見下ろし、選手たちがひとつのボールを追って右往左往するのを見ることになる。円形闘技場——どこかで習って以来、使える場面がほとんどないので記憶の底に沈んでいた単語がふと思い出される。スタジアムは競技の古代的性格をとどめている。高みからの怒号や賞賛を浴びながら、円形闘技場のなかで老練な技を見せる選手たちは、スターというよりは品定めされながら得意技を披露してはおひねりを頂戴する軽業師のようだ。というよりむしろ、それこそがスターの条件なのだろう。

テレビやパソコンの画面に映し出される選手たちは、野球という競技の成功者であり、名声を手にしたスポーツ選手であり、ようするにスターとして演出されている。たびたび挿入される同じ目線の、ときに見上げるようなバストショットと実況解説は見られるべきものを映し、聞かれるべきことを語ることでひとつのドラマをつくりだしている。しかし一人ひとりの顔や表情がほとんど見えない球場では、ロングショットで俯瞰される匿名的な選手たちの動きだけがある。

さて、ぼくとて球場でビールを飲むだけではない。飲みながら見ているのはプロ野球選手こそが見せる気だるい態度であり、節約された動き、素早い諦め等々だ。これらはとりわけ中継のフレームの外側に見られる身振りだろう。そしてこれらは規律正しい態度、全身全霊の動き、徹底的に諦めない姿を旨とする高校野球にはほとんど見られないものだ。

「贅沢な」プレイだなと思う。明日も、その翌日も、翌月も翌年もずっと試合が続いていく大人たちの、ほどほどの、適当な、しかしある瞬間に凝縮された動きを見せる、必要充分な労働がそこに体現されているからだ。

全力で戦い、涙で終わる高校野球はたしかに美しい。草野進がどこかで言ってそうだけど、それは会社の命運に己のすべてを捧げる20世紀の神経症的労働者のようなのだ。不可逆的な命運をかけた二者択一と、その反動としての燃え尽きがそこにある。しかしながらぼくらの生はさまざまなニュアンスに満ちていて、あらゆる問題はそれほど単純ではないし、負けるなんてことがあったとしてもずっと続いていく。

複雑なままに、モヤモヤしたままに、とどまることの贅沢さ。とりあえずその日の勝ち負けが記されるとしても、明日も明後日も試合は続き、優勝してもしなくてもどこまでも仕事は続いていく。おれたちの夏は終わらない。こうした生の厚みを見せながら、ふとした瞬間に活人画のごとき極点を刻む選手たちは、軽業師であると同時にやはりスターなのだ。球場で見るプロ野球は、生真面目さから放埒さへと、二者択一からニュアンスへと、つまりは贅沢さへと、ぼくらを誘っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?