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このところ身のまわりのいろいろでアナログ化を進めている

タイトルのとおり、このところ身のまわりのいろいろでアナログ化を進めている。

世のなかがSociety5.0とかSTEAM教育とか言ってるときに反時代的な話だが、理由は単純でスマホからもう少し離れようと思ったからだ。SNSやネットサーフィンやYouTubeに随分と時間を割いてしまっていたから。

まずは寝床でスマホを触るのをやめたいと思い、安い目覚まし時計を買ったのだが、これがきっかけになってさまざまな箇所に飛び火した。

タイムラインに差し込まれる欲しいかもしれないもののリコメンドや知りあいかもしれない人のリコメンドを見ないフリすることにずいぶん労力を割いてしまっていたのかもしれない。届くなり削除し続けるメール広告やメールマガジンの類いも。ニュースやトレンドや広告といった大事「かもしれない」を見ないフリする。視界の隅でつねにガチャガチャたち騒ぐ「かもしれない」ものたちを見ないようにひとつずつ消していく瞬間的な、しかし無数の労働に慣れてしまっていた。

もっとぼーっとできるんじゃないか? あるいは原稿を書いたり本を読んだりしながら静かにメモをとったりできるんじゃないか?

SNSクライアントを広告のない有料のものにかえる。あらゆるプッシュ通知を切る。メール広告やメールマガジンは片っ端から配信停止手続きをする。ニュースをネットではなく新聞や雑誌で読む。プロによってかっちり構成された紙面。「かもしれない」ものたちのざわめきではなく、断固として確定的な、この時代とは反りのあわない権威的な紙/誌面。

新聞にも雑誌にも広告はつきまとうのだが、紙媒体はざわめかない。下品なコメントもぶら下がっていない。いま地方紙一紙、全国紙三紙を試読中で、加えて科学雑誌三誌を買ってみている。どれを残すべきか眺めくらべているだけで楽しい。土日の午前はカフェでゆっくりコーヒーでも飲みながら科学雑誌を眺めていたい。

ところで新聞を見ていて感じるのはスポーツの扱いの大きさだ。

最近オリンピックがあったところだが、スポーツとはなにか? ぼくもスポーツをするのは好きだが、とはいえなぜこれほど注目を浴び、巨大な資本と結びついているのだろう? 野球についてのエッセイでも触れたように「競技の古代的性格」を連想してしまう。

もう一点不思議に思うのは、芸術や文学を扱う文化欄はあるのに(それは素晴らしいことだ)科学一般があまり扱われていない。

10月上旬にはじまるノーベル賞の受賞予想がとり上げられていたけれど、それはようするにスポーツと同じ文法だからとり上げられているわけだ。ひしめきあう競技者たち。誰が勝利するのかわからない戦い。勝敗が分かつ人間ドラマ。ああ、このところよく掲載されている自民党総裁選挙やドイツ連邦議会選挙の話もそうじゃない。戦いと賭けと人間ドラマ。新聞の古代的性格。

テレビ欄を削除してスポーツを圧縮し、科学ニュースを見開きくらい扱ってあるといいんだけど。

話が逸れた。

ともかく、スマホはあらゆる機能を自らのうちにとり込んでいるので、そう簡単に関係を切ることができない。カレンダーを発明したことで人々は天体の運行を見失ってしまった(ブルクハルト)。天体はカレンダーのなかに移り、カレンダーはスマホのなかに入り、いまや大多数の人はカレンダーも持たず天体の運行を読むこともできない。この魔法の小箱をこじ開け、中身をひとつひとつ追い払おうというわけだ。

目覚ましを追い出し、ニュースを追い出し、ノートとペンを追い出し、時計を追い出す。

21世紀初頭に唯一神の構成要素にされてしまった旧世界の神々をふたたび世に放とうというのだ! しかし魔力を抜いた唯一神もポッケに入れたまま!

ネットを切断して田舎に引っ込むとかそういうことじゃない。いまさらながらPythonを学びはじめている。そのうちRaspberry Piなんかを使って電子工作をしてみたいとも思っている。どこに向かっていのか自分でもよくわかっていないのだが、もしかするとデジタルデバイスのソフト&ハード面を直感的に理解できるようになることで、こうしたデバイスを魔法の小箱や唯一神ではなく、そのへんの道具のひとつとして認識し直そうとしているのかもしれない。

20年かけてようやくデジタルデバイスがノートやペンと並ぶひとつの道具として認識されつつあるということだ。しかしこのところ、前よりスマホを触っているような気もするけれど。

ノートとペンの話をするはずが、新聞のところで大いに逸れてしまった。それについてはまた。

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