見出し画像

「土光敏夫」氏の本

僕の本棚には、同じ本が2冊あるいは3冊あったりする。

なんで?と驚かれるかも知れないけれど、理由は簡単で、読書量が多いとかでは無くて齢を重ねてくると好みがはっきりしてきて、読む対象が限られてくるからである。

好きな作家や対象がいるとそれを好んで読もうとする。逆に言うと、好みでなかったり、肌に合わないといくら読もうとしても頭に入って来ない。途中で投げ出したり、楽しみの筈の読書が苦痛になったりする。

もう若くは無いので、やはり好みの作家に執心する訳である。服のブランドではないが、そうしたものを選んでおけば間違いがなく、満足感や充実感が得られるのである。

えっ、どういうこと?

と言われそうであるが、本屋に行って本を選んでいるうちに、好きな作家の本の中に未だ読んでいないものを見つけて、「おっ、新刊が出たんだ」と思って手に取り購入する訳である。そうすると読み進むうちに、前にどこかで読んだような気がするなと、か思いながら読み進む。小説の場合は、途中で何となく気づくことになる。

ところがビジネス書だとそれにも気づかないで、読み終わってとてもハイな気持ちになる。と同時に、本棚にしまう段階になって、初めて同じ本を本棚に見つけて驚くのである。そんなことが不思議と度々起こる。

僕がそうだから、みんなもそうに違いないと思って家族に話をすると「私はそんなことは無い」「老化の始まりヨ」とかひどいことを言われる。30代位からこんなことがしばしば起こる。当の本人はキツネに抓まれたようで不思議な気持ちで一杯である。ということで結果としてそうなる。

さて、本題。

ビジネス書を読みだして、30代の頃は土光さんの大ファンになった。彼は、工学部出身のエンジニアである。土光さんは小学校を卒業後、旧制岡山中学への進学を希望するが、3度挑戦して3度とも失敗している。その後私立の関西中学に進学する。

その後、蔵前の東京高等工業学校(東京工業大学)へ進むのであるが、この受験にも1度目は失敗している。田舎で代用教員をしながら猛勉強をしたらしい。本当の苦労人なのである。

その後石川島造船に就職して、タービンの開発に従事する。ドイツに行き勉強もしている。ドイツ語の原書を翻訳して勉強するために自分の睡眠時間を1日5時間として、終生これを貫きとうした。毎朝4時もしくは遅くとも5時には起床する。これを60年以上も続けたのである。

朝食はヨーグルトと野菜。昼は蕎麦かカレーライス。夜はイワシの丸干しと一汁。夜の宴席にはほとんど出席せず、7時には帰宅をする生活を貫いた。これはNHKで放映されて、大変な評判となった。

こういう清潔さ、質素さがあって、同時に経営者としての実力、評価は揺るぎ無いものがある。その行動力やバイタリティも並外れている。本当に清廉潔白で、もの凄い経営者である。荒法師の異名を持つ。

タービンの子会社から、経営危機となった石川島重工本体に戻った折は、社内の伝票を全て提出させ、机の上に山と積ませた。そして担当者を一人一人呼び出して無駄な金を使い過ぎると叱った。身辺が清潔すぎる男の前に、くだらない飲み食いの伝票など出せる訳がない。一挙に社内に緊張感が走ったのである。

労働組合の委員長とも裸のつきあいをした。会社の経理内容を明らかにし、出来ることと出来ないことを明確にした。うその無い土光さんには、労組の委員長も協力者となった。おのれに厳しく生きる姿は自ずと協力者を増やしていく。

昭和29年4月2日早朝、土光家に検察官の一隊がやってきた。世にいう造船疑獄事件である。

この時に検察側が調べた政官財の関係者は8200人に上る。土光は造船工業会の副会長をしていて、政界に対するリベート渡しに一役買っていたと疑いを掛けられていた。

この時検察官一行が土光家についたのは早朝6時半。夫人は、主人はまだバス停に居ると思いますので呼んでまいりましょうか、と応えている。検察官は、まさか造船工業会の副会長がバスと国電を乗り継いで会社に通っているとは思いもよらなかった。その時点でシロを確信したという。

石川播磨重工への合併、ブラジル進出と経営は拡大していく。

その後、石川泰三氏に請われて、東芝の再建社長に就任する。69才の折である。

土光さんの東芝初出社は朝7時半で受付には守衛がいるだけであった。歩いてやってくるジイサンにいぶかしく思った守衛は問いただしたが、社長と知るや仰天した。ここでも姿勢は変わらない。

社長就任と同時に経営幹部会を設置し、事業部の業績評価制度、目標管理制度の導入などを断行し、その後の東芝の業績回復は周知の通りである。現在の東芝の方々には、状況が異なるとは言え、土光さんに顔向けが出来ないのではないだろうか。本当に経営とは難しいものであり、そして厳しいものである。

78才の折には、第4代経団連会長に就任。財界トップとなった。この時政財界の不信を取り除くために、政治献金を中止したことは各界に大きな衝撃を与えた。これは土光さんであったからこそ出来たことである。若手財界人を積極的に起用し「行動する経団連」へ変革したのも土光さんである。

85才では、第2次臨時行政調査会の会長に就任し、電電や国鉄の民営化を答申した。増税なき行革である。従来これらの企業に対し、種々の改革を行って来てはいたが、赤字は膨らむ一方で、誰も手を付けられなかった。

91才で亡くなるまで、全力疾走で走り続けた人生であった。本当に尊敬と憧れを禁じ得ないものがある。

企業人として、誰もがそうした姿勢を持ってやっていけば、土光さんほどでは無くとも、自ずと少しずつ道は開かれていくのではないだろうか。

今回これを書くためにパラパラとめくっていたのであるが、やはり類まれな凄さと行動力に感動させられる。本当に素晴らしい人であり、尊敬して止まない。

誰もがこうした清廉潔白で、ひたむきな情熱をもって取り組むことを願って止まない。自分自身も常にそうありたいと思う。

ぜひ、皆さん方にも読んで頂きたい一冊である。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?