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親魏倭王の小話集

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2024年4月の記事一覧

中国史小話集②

中国史小話集②

【外戚と宦官】
中国の東漢(後漢)は外戚と宦官の権力争いが終始続いた。理由は、幼帝が続いたことである。皇帝が幼いと外戚が後見人となり、その権力を利用して専横を極め、それを排除するために皇帝は宦官を利用した。それが繰り返され、宦官と外戚の対立が常態化したが、最後は何進暗殺→宦官皆殺しと共倒れになった。
後漢末は十常侍と呼ばれる十人の宦官が権力を握っていた(中常侍という役職に就いており、実際は十二人い

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中国史小話集③

中国史小話集③

【張楊のこと】
張楊は中国・東漢(後漢)末期の軍閥の一人である。
霊帝の時代から武勇で知られ、何進に仕えた後、独立した。献帝が長安から逃れてくると、献帝を奉じて洛陽に赴こうとしたが、諸将との仲が悪く果たせなかった。
建安元年、押し入った賊に殺害された。家臣の楊醜に殺害されたという説もある。
張楊は『三国志』に立伝されているが『後漢書』には立伝されていない。『三国志』は曹操を魏の初代皇帝としているの

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中国史小話集④

中国史小話集④

【周王朝概説】
周は中国の歴代王朝で最も長く続いた王朝だが、異民族の侵入で一度滅亡している。その後、都を移して再興されるが、都の位置から滅亡前を西周、再興後を東周という。
周は親族や有力家臣に各地を分割統治させる封建制を採っていたが、東周後期になると周王室の権威は弱体化し、各封国がそれぞれ力を持つようになる。この時期は前後期に分かれ、前期を同時代の歴史書から「春秋時代」と呼ぶ。この時期は各封国の君

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中国史小話集⑤

中国史小話集⑤

【董允と費禕の逸話】
諸葛亮、蔣琬とともに蜀漢を支えた董允と費禕は仲が良かった。
ある時、董允の父の董和が、どちらが優れているか試そうと、二人が一緒に外出する際にわざと粗末な馬車を用意した。すると、董允は露骨に嫌な顔をしたが、費禕は意に介さなかった。それを見た董和は、費禕のほうが優れていると思ったという。
ある官職に就いていた頃、費禕は朝夕のみ仕事をして、日中は人に会ったり酒を飲んだりしていたが、

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民俗学小話集③

民俗学小話集③

【赤飯と魔除け】
その昔、ある男が山道を歩いていると、「首吊らんか」という声がしたので、男は「帰りに吊るから待っててくれ」と言ってしまった。目的地についたのは昼で、そこで赤飯をご馳走になった。帰り、声がしたところに来ると、別の人が首を吊っていた。以後、赤飯は魔除けになると言われるようになった。
奈良県の伝説である。私も母から「赤飯は見逃すな」と言われて育った。赤飯は魔除けになるので、振る舞われたら

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民俗学小話集④

民俗学小話集④

【百鬼夜行の話】
妖怪は夕暮れ時(黄昏時)、幽霊は深夜(丑三つ時)に現れるものとされる。以上は柳田國男の分析だが、例外もあり、百鬼夜行は深夜に出現したようである。
『拾芥抄』によると百鬼夜行が現れる日は決まっていて、この日に出かけなければならないときは「カタシハヤ、エカセニクリニ、タメルサケ、テエヒ、アシエヒ、ワレシコニケリ」という呪文(和歌)を唱えれば百鬼夜行に出会わないとされた。
なお、密教の

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