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阿波本家を断絶した綏靖天皇の殺人

やまとみずほの国に生まれて  第二十三話

第二十ニ話「阿波を隠す神武東征が欠史八代を生む」に述べた通り、宇陀の兄宇迦斯弟宇迦斯より先に、神武天皇聖蹟磐余邑顕彰碑兄師木弟師木を攻略した。磐余邑も地名の改竄。神武天皇和風諡号が、古事記では倭は伊と言われの「神倭伊波礼毘古命」が、日本書紀は「神日本磐余彦天皇」。余を我と読ませ、我は日本の磐=礎と言いたそうだけど「ワ」が一つ余る。

順番が逆としか思えない記述は多く、神武天皇聖跡菟田穿邑顕彰碑の戦いに勝った後、神武天皇聖蹟菟田高倉山顕彰碑に登って八十梟帥が充満しているのを見るけど、そこから奈良盆地の兵は見えず、見えるのは宇陀盆地の兵。忍坂八十建を騙し討ちするが、神武天皇聖跡鳥見山中霊畤顕彰碑の山頂から忍坂の兵は見えるけど、この顕彰碑は最後の長髄彦との戦いの聖跡です。

また、二つの兄弟との戦いの記述が古事記で混乱し、兄宇迦斯を弟宇迦斯が裏切るのは日本書記も同じだが、師木兄弟と古事記は戦うと書かれているが日本書記は弟師木の娘を第二代綏靖天皇の皇后に迎えることから、兄師木とのみ戦ったと修正されている。さらに天神地祇を祀るため攻め込む奈良盆地の天の香山に巓の土を、椎根津彦と弟宇迦斯を変装させて取りに行かせる。

これは奈良盆地を制圧した後、もう変装の必要のない老人になった椎根津彦と弟宇迦斯ではなく弟師木が取りに行った。弟師木に兄師木を討ち取らせて宇迦斯兄弟と戦ったのが正しい。そしてその工作を行ったのは綏靖天皇ではなく、高鴨神社を拠点にした神武天皇皇后の兄である鴨王。しかし弟師木に征服された意識はなく、婿が娘の河俣毘売の元へ通ってると思ってただけ。

皇后神武天皇聖蹟狹井河之上顕彰碑は綏靖天皇と河俣毘売の話です。そして第三代安寧天皇を師木津日子玉手見命とし、地名を命名することを天皇家の伝統にする。師木津は後に海柘榴市に発展する大阪湾まで航行できる大和川のほとり、仏教伝来の地碑も建つ。欠史八代と言うが、綏靖天皇には兄殺しの事績がある。多芸志美美命の反逆だが、本家はまだ阿波だからおかしい。

神武天皇後継者争いで、奈良北西部らしい片岡で阿波異母兄の多芸志美美命を射殺すが、綏靖天皇兄の神八井耳命は弓が引けなかったため、実行した弟の神沼河耳命が即位したとのお伽噺だ。父親が奈良が危篤と聞いたら駆けつけるだろうし、二人の弟も歓待し葬式の後は、加太まで見送った。本家倭国を断絶させたかったし、末子相続が当たり前が長子相続の言い訳だろうか。

加太が「カダ」とは知らずに見晴らしの丘って、誘われてる?導かれてる?

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