「第1章学べば学ぶほど迷いの森へ―心理療法の「パラドクス」」in『サイコセラピーを独学する』
8月23日に、金剛出版より『サイコセラピーを独学する』(山口貴史 著)が出版されます。先日公開したプロローグに引き続き、第1章を全文公開します。
本章の内容に関心を持たれたら、ぜひ本書をご一読いただけますと嬉しいです。
「セラピストの迷いの森」とは何か?
さっそくセラピストの迷いの森について考えてみよう。なぜ人は心理療法の迷いの森に迷い込んでしまうのだろうか?
前提 ―心理療法の深遠さ
心理療法は深遠だ。
学べば学ぶほどわからなくなる奥の深さをもっている。それはオリエンテーションとはあまり関係がない。家族療法には家族療法の,CBTにはCBTの,精神分析的心理療法には精神分析的心理療法の難しさがある。
心理療法の道を歩むなかで感じる戸惑いや迷いは,セラピストとしての成長を促してくれる重要な要素として位置づけられる[1]。
「熟練したセラピストになるのは険しい道である」
「セラピストとして迷うのは大切な能力である」
心理療法についてよく言われる言説だ。
私自身もそれに近いことを何度か言われことがあるし,ずっと信じてきたところがある。これらの言説には一定の真理が含まれているのは事実だろう。 実際,険しい道のなかでさまよう過程は,セラピストとしての成熟にとってなくてはならない過程のように思われる。
しかしながら,ここでは一旦立ち止まって考えてみたい。 もちろん,セラピストの迷いの森は心理療法の深遠さゆえに生じるものではある。でも,それだけが理由なのだろうか。実際のところは,いくつかの要因が絡み合うもっと複雑な現象なのではないか。
だとしたら,その複雑さを解き明かさなければならない。
迷いのわけ①―教条化と誤学習
プロローグでは,私がいくつかの心理療法「神話」を信じた結果,「大いなる勘違い」が起こり,その後の臨床現場で苦労するさまが描かれている。
その神話とは,大学や大学院で学んだ「傾聴」「助言をしない」「枠を守る」 であったり,文献やセミナーで学んだ「心理療法の美しいモデル」「心理療法 は週1回で行うもの」であったりする。いわば,これらの考えが私のなかにインストールされ,私のなかで絶対的に守らなければならない「教え」に変換されていた(=教条化)[2]。
読者のなかにも,こうした勘違いとも教条化とも言えるような経験をした人はそれなりにいるのではないだろうか。
初心者に何かしらの技能を教える際,原則論になるのは仕方がない面がある。料理人だったら料理を作る前に包丁の扱い方,大工だったら家を建てる前にカンナの使い方を教える。いずれもその職業の根幹を担う技術だ。その際,扱い方を誤るといかに危険であるかを伝える。そうでないと,自分も他人も怪我をしかねないからだ。心理療法は人の心という非常に繊細なものを相手にするのだから,リスクヘッジのために原則論が強調されるのは無理もない。
ただ,教える側が意図したように教わる側に伝わるとは限らない。教わる側が原則を過度に守ろうとしたり,逆に独自の創意工夫をしたい気持ちに駆られたり。誤った認識や誤解が生じるのは,よくあることだ。経験を積んでいくうちに誤解が修正されるというプロセスは,熟練者になるために必要な一段階として捉えられるべきだろう。
しかしながら,こうした教条化や誤学習(誤ってインプットされた理解や 認識を総称する言葉)が過度になったり,抜け出せなくなったりすると,話は変わってくる。なぜなら,私のように遅かれ早かれ現場で通用しなくなるからだ。
たとえば,私は「絶対に助言をしてはいけない」と勝手に解釈して,「助言=悪」と長いあいだ思っていた。「美しいモデル」通りの心理療法でなければ,心理療法としては「失敗」だと考えていた。「週1回」の頻度で行わないと,「邪道」のような気がしていた。そして,現場でどうしたらいいのかわからなくなり,迷子状態に陥った。
このような迷子は,必ずしも成長促進的なものではなく,むしろ成長の足かせにもなっていたようにも思う。
迷いのわけ②―心理職のパラダイムシフトと大学院教育
現代の心理療法を取り巻く状況は劇的に変化している。私の迷子はそれを十分に把握できていなかったことにも起因していた。その変化を端的に整理すると,以下のようになる。
①現場の磁場の拡大
先達たちの血の滲むような努力のおかげで,以前と比べると心理職が働く現場は格段に広がっている。私が長らく働いている医療現場でも心理職の働く範囲は確実に広がっており,求められることも刻一刻と変化していることを肌感覚で感じる。
たとえば,同じ医療でも精神科医療と周産期医療では全くの別世界が広がっている。求められる心理療法の技能には共通する部分もあるが,現場ごとに細分化されてもいる。
②クライエントの多層化とニーズの変化
クライエントの多層化は,現場の多様化によって対象クライエントが広がったこと,時代の変化によってクライエントの性質が変化したことの両面から生じている。
たとえば,前者としては現在ではアディクション臨床は心理臨床のひとつとして位置づけられているし(先駆者は数十年前から行っていたが),後者はどこの現場でも自閉スペクトラム症やトラウマや解離を抱えるクライエントは増えている。
また,それに伴ってニーズも多様化している。たとえば心理療法の短時間化/短期化のニーズが高まっているのもその一例である。
③公認心理師資格の制定
同じ心理職といっても臨床心理士と公認心理師ではその成立の歴史を異にしており,必然的に期待されることも変わってくる。国家資格の制定によりさらに現場の磁場が拡大していく可能性があるが,公認心理師の職域では本書でテーマにしているような個人心理療法の比重は明らかに低下しており,その傾向は今後加速していくだろう。
こうした変化により,多くの現場では現実に即して学派的心理療法を改変したり,折衷しながら用いたりすることが日常化している(昔から行ってい た人もいるが)。
つまり,従来の学派的心理療法のなかにカテゴライズすることが難しい実践が増えており,各臨床家が日々実践している自分の心理療法をどのように位置づけてよいのか迷わざるをえない状況が広がっている。そうした背景のなかで,「ありふれた心理療法」「ふつうの相談」といった言葉が生まれた。
東畑(2023)の言葉を借りれば,心理臨床の主流は従来の学派的心理療法論から現場的心理療法論へと移行しつつある(どちらが優位ということではない)。
このように現場は刻一刻と変化しているわけだが,現状では大学院教育は 現場に追いつけていない。従来,臨床心理士の訓練制度では学派知が重視されてきたため,大学院教育もその色合いが濃いものであった。
しかし,公認心理師制度と足並みを揃えた学派知から現場知へというパラダイムシフトに 伴い,大学院教育も再編の時期を迎えている。現在は過渡期であり,大学や 大学院でも現場の教員たちが懸命に教育システムを再構築しつつあるが,現状では大学院養成システムと現場のそれとのあいだには断線があるように思われる。
もちろん,リアリティ・ショックと呼ばれるように学校教育と現場のあいだには多かれ少なかれギャップが存在するものである。そのギャップにショックを受けたり,学校で習ったことが現場では通用しなかったりといったことはよく起こる。心理職に限らず,看護師や医師や教師など他の専門職でも話題になるものだ(第4章参照)。
しかし,そうした一般的に起こるリアリティ・ショック以上に,心理療法の世界には大学院教育と現場との乖離が広がっている。そのため,現場で必要な心理療法の知を学ぶことは難しく,また学派というひとつの強力な拠り所が機能しなくなりつつあるという意味で,路頭に迷いやすい状況にあると言える。
迷いのわけ③ー 一人職場とスーパービジョン
そもそもこれだけ多様化している現場に等しく必要とされる心理療法の知を大学院でまかなうことは非現実的である。ただでさえ忙しい学生と教員は,どちらもパンクしてしまう。
そのため,必然的に現場の中や外から学んでいくしかない。だが,現状では多くの心理職は一人職場であるため,現場の中で心理職の先輩から教えて もらうのもまた難しい。「ふつう」を誰も教えてくれないのである。
私自身も長らく一人職場で働いていたが,同業者に教えてもらえないという環境は非常にしんどかった。特に大学院を修了したての一人職場の心細さは,今思い出しても辛いものがある。一人でマイペースに働けるなどのメリットもあるけれど,迷いの森に入り込んだときに現場で教えてもらえないのでは途方に暮れる気持ちになるのではないだろうか。
もちろん,セミナーやスーパービジョンから学ぶことも大切だ。私自身もお金がないなかで訓練を受けつづけてきた。しかし,金銭的に余裕がない心理職が自腹を切って外で教えてもらうのには限界がある。また,同じ現場を共有していないスーパーバイザーから現場で必要な心理療法のコツを教わるのは原理的な難しさもある。
小まとめ―なぜセラピストは迷いの森に入り込むのか?
「心理療法の迷いの森」とは,セラピストが心理療法の実践において方向性を見失う,あるいは戸惑う状態を指すメタファーである。
心理療法とは複雑で深遠なものであり,学ぶほどにその奥深さがわかるようなものだ。当然,セラピストはどのアプローチを選び,どの方向性に進むべきか戸惑うことがある。この迷いや戸惑いはセラピストの成長にとって重要なプロセスとも言える。
だが,これ以外にも,セラピストが迷いの森に入り込む理由は複数ある。
第一に,初学者はしばしば心理療法の原則を過度に捉え,誤学習や教条化を起こすことがある。多くは不安から特定のルールやアプローチを過度に守ろうとし,柔軟性を失うことが,迷いの森に迷い込む原因となる。
第二に,現代の心理療法の実践は以前と比べて多様化しており,現場で必要なスキルやアプローチも変化している。また,公認心理師資格の制定もそうした変化に拍車をかけている。しかし,大学院教育が現場の急速な変化に追いつけておらず,学んだ知識が実践で通用しないことがセラピストを迷子にさせる要因となっている。
第三に,多くの心理職は一人で仕事をするため,現場での指導やアドバイスを受ける機会が限られている。スーパービジョンやセミナーから学ぶことも重要であるが,経済的な制約や共通の現場を共有しないスーパーバイザーからの指導には限界があるため,迷いの森に入り込む可能性が高まる。
つまり,今まさに生じている迷いの森は,単に心理療法がもつ性質や教育的な構造による一般的現象ではなく,時代のうねりのなかで発生した臨床心理学界を取り巻く状況の変化との掛け算というダイナミズムによって起こる現象なのである。
そのため,学びはじめの頃だけでなく,学びつづけてから迷い込むこともあり,初学者から中堅までを悩ます現象が「心理療法の迷いの森」である。
迷いの森のセラピストとは誰か?
以上のように「心理療法の迷いの森」という現象自体は価値中立的,つまり良いも悪いもない単なる現象である。一方,そのなかにいるセラピストの状態は,以下の3つに分類できるだろう。
①成熟のさまよい
シンプルに言えば,これは心理療法を学ぶ過程で必要不可欠なものである。心理療法家は迷いの森をさまよいながら,成熟していく。そのなかで,ままならなさや持ちこたえる能力を身につけたり,もがきながら技能を磨いたりしていく。
②とらわれの迷子
教条主義や原理主義によって刷り込まれた「神話」の誤学習にとらわれるがゆえに,迷子になっている状態である。一度誤学習してしまうとアンインストールすることは難しく,柔軟性に乏しくなる。イバラが絡みつき,身動きがとれなくなっているようなイメージだろうか。
③へだたりの迷子
大学院教育やスーパービジョンやセミナーなどで学んだ知識や技能が 現場の実践で通用しないという,教育と現場の乖離によって生じる迷子である。とりわけ,特定の学派だけに依拠した心理療法だけでは難しい今のような時代に起こりやすい。
もちろん,この3つの状態は,すべてもれなく起こるわけでもリニアに起こるのでもなく,時に入れ替わりつつ,行ったり来たりを繰り返す。
「へだたりの迷子」だと思っていたら,「とらわれの迷子」になっていて,でも「成熟のさまよい」でもあって,といった判断が難しい面があることは否めない。
しかしながら,私は分類すること自体に意味があると考えている。その理由を以下に説明してみよう。
この本は何を目指すのか?
この本で目指すことは,「とらわれの迷子」と「へだたりの迷子」からの脱却だ。
この2つは,どちらも学習の主体性が欠けているという点で共通している。前者は疑問を抱くことなく誰かの「教え」に従う,後者は学んだことと現場のあいだにある「何か」を自ら探ろうとしていない,ということだ。
だから,迷子から脱却するためには,学習の主体性を回復しなければならない。
その方法が心理療法の〈独学〉だ。独学とは,誰かに強制されることなく,学ぶ場が与えられるわけでもなく,自ら学ぶということだ。プロローグで述べたように,孤高の学習者を目指すわけではない。独学者とは,率先して人から学ぶ人のことであり,自習,研修,スーパービジョンなどを主体的に並列化し,選択していける人のことだ。
そもそも,なぜ,迷子からの脱却を目指すのか。
その理由のひとつは,クライエントが不利益を被るからである。もし私たちが似たような視野狭窄に陥りつづけ,そのあいだクライエントに本来は必要なサービスを提供できなかったとしたら,それは専門家としての怠慢だろう。
もうひとつは,セラピストの燃え尽きにつながるからである。私はこれまで迷子の果てに疲弊し切って心理臨床の世界から遠ざかる人を何人か見てきた。燃え尽き,自信を喪失したセラピストが増えることは,決してクライエントのためにならない。
むろん,こうした脱却の試みは容易ではない。
そもそも業界全体として心理職の教育システムを整備していく必要があるし,個々人が心理療法の体系や時代の変化をメタ的に理解できるようになることだって重要だ。
しかし,私は現場で働く一人の臨床家として,大きな話ではなく,「小さな話」をしようと思う。
それは,実際の臨床現場で臨床家がどのように途方に暮れるのか,何をどのように学べばそこから脱することができるか,ということだ。
心理職として生きていくのは難しい。心と体を目一杯使わないとできない 仕事なのに,立場も収入も不安定だ。おまけに学びはじめると,さまよいの森に迷いこむ。踏んだり蹴ったりだ。
でも,だからこそ,私は思う。 心理職はタフになり,しぶとく生き延びつづけなければならない。
「魚を与えるのでなく,釣り方を教えよ」という言葉を聞いたことがあるだろうか。飢えている人に魚を与えても一日で食べてしまうが,釣り方を教えればその後も生きていける,といった意味合いである。
この本では,魚を与える(迷子脱出マニュアルを教える)のではなく,釣り方を学ぶ(抜け出すための心理療法の学び方を見つける)ことを目指す。 そして欲を言えば,読者自身が釣竿を作る(自分なりの心理療法をつくる) ことに役立てると,なおうれしい。
ただし,心理療法を学ぶために自身の生活を犠牲にしたり,心と体に負荷をかけすぎたり,無理をするのは禁物だ。それでは生き延び「つづける」ことはできない。
ここで示すのは,心理職が置かれた現実のなかで「持続可能な」学習方法である。クライエントのためにも,セラピスト自身のためにも,長持ちすることが大切だ。
この本は何を語ろうとしているのか?
ここまでの話を踏まえて,ロードマップ(※本書に記載)で示した内容をもう一度整理しておこう。
次の第2章では6つの事例を通して,私自身の迷子体験を紹介する。いずれも私が心理職1年目から10年目までに体験した失敗事例である。振り返るのは大変胸が苦しかったが,いかにしてセラピストが迷いの森に入り込んでしまうかを示したつもりだ。読者は読みながら,「私もこういうことあったな」 と思い出したり,「昨日のケースに似てるな」と思ったりするかもしれない。
第3章は迷子からの脱却を図る。この章は,「とらわれの迷子」と「へだたりの迷子」という2つの迷子から読者が脱する手伝いを試みる。私なりのナビゲーションである。その際,キーワードとなるのが,「脱神話」と「暗黙知」である。「暗黙知」とは,誰もがそれとなく身につけているものの言葉にできない,現場に埋め込まれた経験知・実践知を指す。いわゆる,コツとかちょっとした工夫といったもので,教科書にはあまり書かれていない,しかし実際にはあらゆるサイコセラピーを動かしている原動力=エンジンのようなものだ。この暗黙知を知ることは,迷いの森のなかで武器や装備を手にするようなものであり,迷子から抜け出すことを助けてくれるだろう。第3章は私なりの独学の成果でもある。
第3章まで読んでいただければ,ある程度は迷子から脱出できるかもしれない。しかし,時代はあっという間に変化し,一度手にした地図は古くなってしまう。自分自身で地図を更新し,ナビゲートできるようにならなければ,迷子に逆戻りだ。しかし,その性質上,現場で暗黙知を学ぶことは難しい。 そのため,第4章では暗黙知を現場で学ぶことの構造的な困難を整理したうえで,それでも現場で暗黙知をいかにして身につけていくかについて論じる。 いわば,暗黙知の学習論であり,独学の方法論である。
最後の第5章では,ふたたび教条化に陥らないための方法を模索する。重要なのは,自ら理論を作っていくことだと私は考えている。といっても,大きな理論をぶち上げる必要はない。いつか本や論文になるまで発酵させることもあるかもしれないけれど,今あなたがいる現場で,あなたが作り上げる小さな理論で十分だ。そうした小さな理論を積み上げていくことこそが教条化を避け,心理臨床の世界を発展させる。教えをなぞることではなく,自分なりの小さな理論を作っていくことが重要だ。それが,独学の成果を形にするということだ。
このような本書の構成は,一見するとセラピストに焦点を当てる比重が大きいがゆえにクライエントを置き去りにしているように見えるかもしれない。 しかし,この点については明確に否定をしておきたい。
クライエントを支えるためには,セラピストが支えられなければならない。セラピストについて語ることとクライエントを支えることは,完全に両立すると私は考えている。
この本はセラピストを支え,その先にいるクライエントを支えることを常に念頭に置きながら書かれている。
さて,まずは迷いの森に一歩ずつ分け入ってみよう―
書籍情報
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