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仏教系学園ラブコメ小説 「ダーリンはブッダ」 第十三回 スイトルさん 1

スイトルさん 1

 北校からの帰り道、私と冴馬は初めて、二人きりで心ゆくまでおしゃべりをした。
 何台もの車のヘッドライトが私達を照らしながら通りすぎ、私達は夜の道を味わいながら歩いていた。相原さんから借りた上着は暖かく、私は不思議な気分に包まれていた。


 どうして、冴馬はこんな冴馬になったのだろう。今なら、それを聞けるかもしれないと思った。
「ねえ、冴馬は昔からその、理科室のカーテンみたいな服を着ているの? ところでそれ、やっぱりカーテンよね。」
「うん。頂き物のカーテンなんだ。制服というものは無駄にお金がかかるから、買えなかったんだよ。」
「買えないからカーテンなの?」
「いいや、それは選んでカーテンなんだ。僕も、中学の時はきちんと学生服を着ていたんだよ。」
「嘘! 冴馬が学生服なんて着たことあるの?」
「もちろん。ちゃんと受験生だったし、髪の毛とかも今よりずっと短かったから床屋さんにも行ったし。今は、伸びたところを適当に、ハサミで切っているんだけどね……。実を言うと、僕には先生がいるんだ。」
「先生?」
「うん。人生の先生。その人は、名前をスイトルさんと言って、漢字は教えてもらえなかったんだけど、スイトルのスイは、水と書くんだって言ってた。僕がスイトルさんに出会ったのは、ここに転校してくる前に、前の高校で僕が……、登校拒否から家出をしていた頃のことだね。」
「ええっ、冴馬って、登校拒否なんかしていたの!? 全然そう、見えないんだけど。」
「そうだね。やっぱり、学校って無意味に感じてしまうものだから。その当時の僕には、とても、辛いものだったんだよ。それで、僕は学校に行かずに井の頭線に乗っていた時に、痴漢にあったんだ。」
 冴馬は思い出しながら言った。私は初めて、冴馬の思い出の中に、連れて行ってもらえる気がした。
 
スイトルさん
   
 その時、僕の頭の中は茫漠としていた。何でかわからないけども、いつの頃からか僕の毎日が茫漠としていたんだ。
 毎朝電車に乗って、電車を降り、街を歩いて学校に通う。ただそれだけの毎日だった。だけどあの、漠とした感覚は一体何なのだろうかと思った。それとも他の皆も、僕以外の井の頭線に乗っている乗客の皆も、僕には内緒で漠として暮らしているのだろうか。
 そうにも見えるし、違う気もした。形は目に見えても中身は教えてもらえない。ただ、繰り返される毎日は間違いなく現実であるということは確かで、この生ぬるい井の頭線の車中の空気も現実で、女子高生は大概4人で固まっていた。
 先頭車両で運転席越しに見える風景は、意味もなくただ、じんわりとした涙を誘った。
 人に見られないように壁際に寄り添って景色を見るのが好きだった。涙が出たけどその涙に意味はなかった。ただ、迫り来る風景と僕は本当に無関係なんだと思った。
 この世と僕とは、交わることがない。
 そういった漠とした不安だけがあった。生きがいがないとか、そういう年寄りくさいことじゃなくて。なんていうか……世界は素粒子で構成されていて、いつでもバラバラになる準備ができていたんだ。その頃はこの世界が全部嘘で、本当の世界があると思っていた。この世が何でできているのか、僕はすごく、知りたかったんだ……。
 
 いつものようにすり抜ける景色の中で電車に揺られていると、明大前で電車が止まった。
 いつも気付くのが一瞬の間、僕は遅れてしまうんだ。慌てて降りようとしたけど一気に押し寄せる人波に押され、黙ったまま電車は発車した。
 息ができなくなるほど、車内の密度は膨れ上がって、人と人が、ありえないほど触れ合っているのに、その瞬間僕たちはただの塊になる。この触れ合いに意味はない。ただ、何もない毎日の中で、関係のない人達に圧迫される満員電車の苦しさが僕は好きだった。
 東京には空がないって、そう智恵子は言ったらしいけど、僕には空がわからなかった。
 ただこの塊は次の駅で吐き出されて、皆また元の個体に戻る。ばらばらに散る。そしたら僕も流れに乗って、次の停車駅で乗り換えるんだ。漠としながら、「きっとそうなる」と僕は考えていた。その頃はもう、この世は、たいしたことを裏切らなくなっていたから……。
 授業も、2時限目には間に合うだろう。そう思ってた矢先だった。圧迫しあう人塊から、手が伸びてきた。手は僕の前までくると、何故だか握手を求めた。僕は身動きとれず、じっと手を見つめ、かろうじてその手に触れると、その手に少しの感触で握られた。突然、脳に血液が集中するのを感じてジュウと音がした。
 黙っているとその手は、今度は僕のズボンのジッパーをゆっくりと開けた。「あ、触られてしまうな」と、僕は思った。手は勝手にジッパーに滑り込んで、僕の膨らみをそっと撫ぜたけど、僕は相手が誰なのかわからなかった。
 驚いたのは、僕の頭の中の集中だった。血液が脳に集まってきて、そういえば何か叫ばなきゃいけないんじゃなかったかと思って、「痴漢です」とか、「触られてます」とか言おうとしたんだけど脳に血が集まっていて、そうしてる間にドアが開いた。相手の手が僕を押し返すように離れて、一斉に人が外に押し出されていった。

 
 息が上がっていた。降りたホームで仕事に急ぐ人たちは無感情に僕を押し、僕はジッパーを開けたままベンチまで寄せられてしまった。ふらついて、ベンチに座ると、さっきの手が。大きくて血管の浮いた、手が差し出されてきたんだ。そして、「大丈夫?」って言った……。

 それが、スイトルさんと僕との出会いだった。
 黙ったまま彼を見上げていると、彼は。「やわらかそうだったから、触ってみた」 と言った。どこかに訴えることもできるのになと、僕は考えていたんだけど、あまりにもこともなげな彼の対応に驚いて、飽きれて自分のジッパーを上げた。
 ただ、空気はいつもと違って新鮮に僕に突き刺さってきた。それはどう考えてもその、挙動不審な……27歳くらいのドレッドヘアの彼が引き起こしてることに違いはなく、これから僕たちは何処へ行くんだろう? と。電車の去ったホームでしばらく、お互い黙って風にさらされていた。


 スイトルさんを初めて見た時、何故かこの人は27歳か、29歳。30歳丁度はありえないと思った。それはスイトルさんが今、何かを起こしそうな歳に見えたから。僕にとって「何かを起こす」歳は、偶数ではなく、奇数なんだ。今月も、十一月というのは、単なる偶然じゃないのかもしれない。
 この人は僕を変えようとしてるのだろうか? (だとしたら何のために?)それともただの痴漢なのか。
 スイトルさんは僕の前から去ろうとしなかった。
「あのね。」
 スイトルさんは口のきけない人が自分の気持ちを伝えたい時みたいに、もどかしそう
に言った。
「……うーんと、あの。キョムを感じるから、君の顔から。さっき凄いキョムを感じたから、大丈夫かなと思って、君を助けたくなって。それで、触ってみたらやわらかかったけど堅くなったから、大丈夫だなと思って、それだけだけど。……そんなに、虚無感持て余してんなら、もっとちんこのこととか、気にかけたほうがいいよ、絶対。…それだけ。」
「……ホモなんですか?」
「違うよ」

 こともなげに、自信たっぷりに。なのに、僕の前から去ろうとしなかった。スイトルさんは一つ息をして言った。
「君は俺んちに付いて来るだろ? 今、これから。学校行っても、何もないんだから」  

僕はその時何も考えていなかった。なのにビジョンは、これからこの人の家に行くって事がわかっていた。「何もないんだから」っていう言葉が、本当にその頃の僕を言い当てていたんだ。僕は彼について、知らない場所を歩き始めた。

「名前、聞かないんですか?」
 と僕は聞いた。
「ん? 言いたくなったら言って」
「剛玉、冴馬……」
 そう言うとスイトルさんは「いい名前だね」と言って、インドで2500年前に悟ったというゴータマ・シッタールダのお話をしてくれた。
「俺は、スイトルっていうの」
「スイ、トル?」
「漢字は教えてあげない。ダサいから。アシンメトリーでそんな好きでない。でも、
スイは水って書くから、それくらいは、俺を支配していい」
「……?」
「人に名前を教えると、相手に支配される危険性があんだよ。知ってた?」
 そう言うと石造りの階段に向かって歩き始めた。
 さっき、僕はこの人に性器を触られたというのに、のうのうと附いて歩いていた。軽い不安と妙な安心が胸の裡にあって、この妙な安心は多分、この人は僕の見てる世界を解ってくれている人っていう、根拠のない自信だった。
 毎日学校に通うのに、僕は誰の顔も覚えられないんだ。目に映っても、「入って」こない。育ててくれた義理の両親の顔でさえも「入って」こない。そんな僕の世界に突然入ってきたスイトルさんは、極彩色の風景だった。
 僕らは黙って駅を出て、路地を歩いた。
 スイトルさんは途中でバナナを買って僕に持たせると、八百屋のおばさんが何気なく、
「スイトルさん」
と声をかけた。彼はけっこう、色んなものに支配されているんだな、と知った。


 アパートの階段を登る。不安定な鉄の階段が、ギイギイと鳴り、本当に知らない世界を象徴してるみたいで、僕の鼓動がその時やけに大きく聞こえた。ジャラジャラとした鍵束を廻してドアを開けると、スイトルさんはこう言ったんだ。
 「じゃあ、俺夜までバイトだから。好きなもん見てテキトーに、やってて。冷蔵庫に麦茶とか、食いもん入ってるから勝手に食って。コンビニは角に二軒あるし。飽きたら帰っとっていいよ。じゃあ」
 え? と僕は面食らった顔をしたみたいだけど、スイトルさんは普通に鍵を置いて出かけてしまった。ギイギイと、外の、鉄の階段を降りる音がした。そして僕は、マヌケにも呆然と部屋に取り残されてしまったんだ。
 
 部屋は、タバコを吸う人特有の、湿ったような匂いがした。それは別に嫌な匂いではなかった。台所には料理の後があった。さっきまで飯つくって食べてましたって、そんなかんじだ。
 キッチンからガラス戸を開けて部屋に入ると、タバコくさい一人暮らしの部屋があった。だけど僕の部屋とは、何か違っていた。それは部屋の中のひとつひとつが、さっきまでほんの30分ほどの間に知り合ってしまったスイトルさんの、分身のような佇まいでそこにいたから……。


 部屋の中央で全体を見渡すと、黙ってベッドに倒れてみた。今日の僕の運勢は、一体どうなっているのだろうと、しばらく目を閉じて寝たふりをしていた。ふとんから漂う人の匂いを嗅いで、僕はじんわり涙がでた。

それは、電車の窓から見るあの涙に似ていた。



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