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売上155億円の中小企業社長の原点は、自ら立ち上げた野球部にあった。リーダーの思想が培われた「走り続けた30年」

今年の土用丑の日は7月23日。鰻を食べようと決めている人も多いのではないでしょうか。一般的な鰻養殖の現場では、病気の予防を目的として薬品が使われています。しかし2005年、日本で初めて鰻の無投薬養殖を実現した会社があります。

大分県佐伯市に本社があり、2023年には設立50周年を迎える山田水産です。460人を超える従業員を率いるのは、二代目社長の山田信太郎。いまや売上155億円を超える企業へと成長しました。

「日本の中小企業の道標になりたい。ものづくりに奮闘している人はもちろん、大企業に入れなくて悔しい思いをした人、事業承継に悩む人、スポーツで結果が出ない人……そんな人たちに希望や勇気をもたらす存在になりたいです」

こう語る山田にも、挑戦しても思い通りにいかない、波に乗れない時期がありました。社長の息子として生まれた、はたから見ると恵まれた環境にいながらも、幾度となく格闘してきた現在があります。48年間の人生のときどきで、のちに社長になる山田の思想をつくってきたのが山田水産入社までの経験でした。

中高で野球、大学でラグビーと、自分の好きな競技に青春を捧げた時代から、仕事ができない商社マンだった時代。思い出を振り返りながら、試行錯誤した日々を経て得た学びや気づきを語ってもらいました。

ほぼ毎日ランニングは欠かさない

山田信太郎
山田水産 代表取締役 社長。1974年生まれ。大分県佐伯市出身。岩田学園を経て駒沢大学卒業後、阪和興業入社。約3年勤めた後、山田水産入社。2020年に現職。仕事の合間に筋トレやランニングで心身の鍛錬に努める。2011年に初挑戦したフルマラソンでは4時間半、2018年にはサブ3.5を達成。

「僕、落ちこぼれだな」初めて抱えた劣等感

——キャリアスタート以前のことになりますが、岩田学園中高時代と駒沢大学時代でのスポーツ経験がご自身の基盤をつくっていると伺いました。まず、岩田学園に入学する前のことを教えてください。

九州地方にはラ・サール学園や久留米大学附設、青雲などの名門私立中高一貫校がいくつもあるなかで、岩田学園は新設校でした。

僕は4期生として入学したんです。父が岩田学園理事長(当時)から「岩田では感性豊かな子どもを育てたい」と聞いて、僕をそこで学ばせたいと思ったようです。

——出身地の佐伯市から岩田学園のある大分市までは50km以上の距離があります。必然的に寮生活になりますね。

現在は個室になっていますが、当時は6人部屋の寮でした。びっくりしますよね(笑)。

そこで僕はホームシックになってしまうんです。

県全体から優秀な生徒が集まっているからか、成績は80人中65番が最高順位で、「僕、落ちこぼれだな……」としんどくなって。人生で初めて劣等感を覚えた瞬間でした。

このまま6年間過ごすのは面白くないし、自分の得意なことで輝ける場所が欲しくて、中2のときに野球部(軟式)をつくろうと決めたんです。

佐伯市は野球が盛んな街で、僕も幼いときから野球をしていて、小学校のときはチームのキャプテンを務めていました。

体育の先生の導きと理事長の協力のおかげで、同好会からスタートすることができました。

——同好会は部活より格下の扱いになることが多いです。不自由さを感じるところもあったのではないでしょうか。

やっぱりハンデはありましたね。たとえば、僕たちはサッカー部が使っているグラウンドを使えないので、適当な草むらを草刈りして使っていました。

グラウンドを使いたいときは、有料の場所を借りて練習していました。移動時間の方が練習時間より長かったかもしれません。だから、なるべく長く練習するために、学校からはベースとボールを持って走って移動(笑)。

ティーバッティングは壁に向かって新聞紙を巻いてつくったボールでやっていました。学内のグラウンドを使える頻度は週1回だったので。

今思うと、立ち上げから、時間・人・場所……すべてのリソースが限られた中で練習し、自分たちの力を高めていった経験は、スタートアップ企業でひとつの事業を立ち上げたような感覚に似ています。

「自分との約束を守る生き方」を貫いてきた

——恵まれない環境の中で、よく折れずに続けられましたね。

何より「自分には野球しかない」という思いがありました。

自分が部を立ち上げたわけですから、「やり抜いてみせる」という覚悟もあったと思います。勉強についてはまったくそう思わなかったのですが(笑)。

だから、自分ができることは全部やりたかった。みんなが寝ている間にそっと抜け出して素振りをするのも恒例でした。

僕ひとりが秘密の特訓をしたところで、チームにプラスの影響が出るかはわからないけど、この努力は将来どんな形であれ、きっと役に立つだろうとは思っていました。

——初勝利を収めたのは高1のときだそうですね。野球部をつくって3年経つころです。

延長戦を制しての初勝利で、人生で一番感動したと言っても言い過ぎではない、僕にとって特別な出来事です。

そもそも僕が野球部をつくったのは、学生生活を楽しみたかったからではないんです。勝って結果を出したかったから、野球部をつくりました。だから、最初から勝利を見据えていた。

チームのみんなで力を合わせて勝てば、学園内での野球部のイメージや、外から見たときの岩田学園のイメージも変わるのではないかと。

岩田学園は難関大への進学を重要視する校風がありますが、野球を通じて文武両道ができることを伝えたかった。僕には「文」が抜けていましたが(笑)。

チームメンバーのなかには、僕を信じて他の部活をやめて入ってくれた仲間もいました。彼らに「野球部に入って良かった」と感じてもらうためにも、絶対勝たなきゃいけないという執念があったんです。

同じように野球をしていた小学校の幼なじみは、みんな地元の県立高校に進学して、甲子園を目指していました。彼らとの間に差ができているのも知っていたので、なおさら感動が大きかったんでしょうね。

——このエピソードから見えるのは「自分との約束を守る」姿勢です。

子どものころから、僕は父と比べてカリスマ性や才能、強さがないと感じていました。だから、倒れるくらい努力して初めて、自分の人生が成り立つのだと。

社長になったいまもそう考えています。だから、ちょっとでも手を抜いたり、自分に甘くしたりするようになれば、社長失格と言ってもいい。

大人になってからはフルマラソンをしていますが、「どうして走るんですか」とよく聞かれます。答えが難しいんですが、走る云々より、ハードな状況に自分を追い込みたいんです。

極限状態に身を置くことで、自分に負けないこと、自分で決めたことをやり通すこと、自分に嘘をつかないことを意識し続けられるんですよね。

ラグビーから学んだチームビルディング

——そういう「自分と向き合って正直に生きる」マインドは、大学でラグビーを始めたころからあったのではないかと思います。でも、なぜ野球からラグビーに転向したのでしょうか。

中学のときに「雪の早明戦」と呼ばれた、関東大学ラグビー対抗戦グループ最終戦・早稲田大学 対 明治大学の名試合をテレビで観たんです。

6万人の観客が集まった冬の国立競技場で選手たちがスクラムを組むと、雪が降っていたにもかかわらず、グラウンドから湯気がぶわっと立ち上るほどの熱気でした。

試合終了間際まで激しい攻防が続いて、早稲田が勝利するのですが、自分たちらしさを貫いて最後まで勝利を諦めなかった明治チームを見て、とんでもなく感動して。

そんな原体験があって、高校卒業後は明治大学に進学してラグビーをやろうと決めていたんです。だから、高3で野球部を引退したあとラグビー部に入って、受験勉強に支障をきたさない程度に練習していました。

——その後、第2志望の駒沢大学に入って、ラグビーサークル(ラグビー同志会)に入ったそうですね。経験値が少ないなかでラグビーをやってみてどんな気づきがありましたか。

ラグビー中心の生活を送っていましたが、やっぱりすごく難しかったです。高3で少しかじった程度で、いきなり本格的に始めたので、初めてやるスポーツと言ってもいいくらい。

中高の野球と同じくらい一生懸命やっていたものの、いままでと違って「自分は全然できないな」という意識が強くありました。怪我をした時期はレギュラーから外れていましたし。

先輩から指名されて、3年生でキャプテンになったときは、悔しい思いをすることが多かったです。技量や体力、体格……あらゆる面で周りより劣っていた僕がリーダーになったわけですから、どうしても負い目を感じてしまって。

その分、自分の意見を強く言いづらいんですよね。とても気を遣う状況でした。みんながいろいろと言ってくるのを聞いて、共感を示して、受け入れることが多かった。

ただ、未熟な自分がチームや組織を率いるシチュエーションは、自分よりも経験値が高い人や人生の先輩ともいえる年上の人たちばかりに囲まれる、社長・経営者といういまの立場と通じるものがありましたね。

どんな伝え方をしたら人の気持ちを動かせるのか、行動に移してもらえるのか。常に手探りの状態でしたが、自分なりのチームビルディングを試行錯誤する重要な時間でした。

——念願のラグビーができる環境で過ごしながらも、厳しさも感じていたのですね。当時、印象的だったことはありますか。

ラグビーサークルなので、ラグビー部とは違って専用のグラウンドがないんですよね。中学で野球同好会だったころと重なるんですけど、電車に乗って河原まで行って練習していました。

恵まれない環境であっても、毎日愚直に練習を続けていると、他校のラグビー部と試合したら、ときどき勝つんですよ。しかも、体育会系のラグビー部に勝てることだってある。

山田水産のような中小企業が大企業よりも大きな結果を出す——当時の経験はいまにつながっています。

夏は菅平で合宿をするのが恒例でした。大学ラグビー合宿の聖地でもあり、全国からラグビー部・サークルが集まって、地元のスポーツ用品店に大学名や団体名、滞在予定などを掲示していると、他校から試合の申し込みが電話で来るんです。こちらから試合をお願いすることもありました。

ラグビーに青春のすべてをかけていましたね。

——大学生活では他にも楽しい遊びにふれる機会が多いと思います。そんななかでラグビーに熱中し続けたのはどうしてだと思いますか。

コンパに行くとか、彼女とデートするとか、大学生らしい過ごし方もあったんでしょうけど、そっち方面にはいかなかった(笑)。(いけなかった……)

ラグビーに情熱を燃やして、試合で勝って感動したり、勝利の美酒に酔ったりする。勝つことで得られる達成感が、僕にとってかけがえのないものだったんです。

自分のポリシーが「ひとつ上の階級に挑むこと」で。何かに取り組むとき、少し上のゴール・目標を掲げて、そこに向かって努力し続ける姿勢が昔からありました。

だから、社会人ラグビーチームから声をかけられたときは、喜び勇んで試合に出向いていたくらいです。挑戦し続ける自分が好きなんですよね。

「教えてください」と謙虚に学ぶ姿が応援された

——ラグビーに青春を捧げた4年を経て、商社(阪和興業)に就職してからは、どんな仕事をしていましたか。

最初はカナダの東海岸にあるニューファンドランド島に3ヶ月間出張して、カニの検品・買い付けの業務を担当していました。若手の登竜門といわれる仕事です。

そこで、僕たち商社マンとインスペクター(検品員)と組んで、品質チェックや値段交渉をしていました。当時はインターネットも携帯もないので、カニの状態やサイズ、色などの情報をすべて手書きでまとめて書類をFAXで送る時代。信じられないでしょう(笑)。

インスペクターは中高年の日本人男性で、いわばベテランです。僕ら若手の仕事は、彼らの業務の手伝いだけでなく、身のまわりの世話にも及びます。

あくまで当時の話で、いまは変わっていると思いますが、一緒にコテージに住み込んで1日3食用意して、洗濯をして、欲しいとリクエストがあったものを買いにいってと、相撲やプロレス界でいう「付け人」みたいな役割を担っていました。

——かなり大変そうです(笑)。

いろいろな意味でハードでしたが、楽しかったです。中高6年間、寮生活をしていたこともあって、人と暮らすのが苦ではなくて。むしろ仲良くなって、可愛がってもらえたんですよね。

ただ、仕事ができる人間だったわけではないんです。むしろ、できなかった。英語だって片言の状態でカナダに渡りましたし、業務に関わる知識もあるとはいえない。

それでも周りの人たちに「わからないので教えてください」と伝えることだけはできたんです。変なプライドもないから、僕が積極的に学ぼうとする姿勢を応援してくれる大人が多かったんだと思います。

「仕事ができないのに、給料をもらっていいのか」

——その後、米国シアトルに駐在しています。出張とは全然違う感覚なのでしょうね。

アメリカに住みながら仕事できたのはありがたい経験です。

僕が住んでいたのはエリオットベイで、治安がいいとはいえない場所でした。ただ、中学以降、地元を離れて各地を転々としている僕にとっては、どこでも住めば都です。

仕事で余ったカニを持ち帰って、近隣住民に呼びかけてはみんなで食べるうちに、近くに住むダンサーたちと仲良くなって、飲み仲間になったのもいい思い出。

大学時代によく行った三軒茶屋でもそうでしたが、その土地に馴染んで溶け込んで、誰とでもお酒を飲むんです。いまも、ラフな格好でふらっと立ち飲み屋に入ると、たいてい隣のおじさんから話しかけられ、「まあ、1杯飲みな」と奢られます(笑)。

——周囲の人たちから親しまれやすいお人柄なのかなと、社会人になってからのエピソードを伺っていて感じました。当時、上司からも大事にされていたのではないでしょうか。

ありがたいことです。駐在員時代、休日も一緒に食事するくらい、可愛がってくれた松原さんという上司がいました。僕より20歳以上も年上の方で、いまもときどきメールでやりとりします。

僕が「山田水産の社長の息子」なのは社内に知られていて、実家の“看板”を背負っていることは、ものすごいプレッシャーでもありました。同期は一流大学出身者ばかりでしたし、自分自身が「できない商社マン」という自覚もあったんです。

阪和興業から山田水産に「おたくのところの息子は仕事ができない」みたいな話がいくのではないかと考えては暗い気持ちになっていました。さらに、仕事で関わる問屋、事業者にもそんなふうに思われていたらどうしよう……と。

僕は阪和に3年勤めたあと、山田水産に入社して、いずれは二代目として家業を継ぐことが決まっていました。でも、そんな残念なイメージが定着したら、いいことにはならないでしょう。自分なりにもがきながらも、理想の商社マンにはほど遠い現実を深刻に思い悩んでいました。

自分は仕事ができない。貿易実務の仕事が難しい。会社から求められるレベルに到底満たないのに、このまま給料をもらっていていいのか——そんな悩みを松原さんに打ち明けたときに、かけていただいた言葉はいまも忘れられません。

「君はそんなこと考えなくていい。阪和の社員として大きな利益を出してほしいなんて、誰も期待していない」
「たとえば、大企業で働く人がどういうことを考えているのか。阪和にいる間はそういうことを見て、聞いて、感じていればいい。それが、いつか山田水産の社長になる、君の仕事だ」

松原さんは、僕にこうやってはっきり伝えることで、僕がより良くなっていくだろう、成長していくだろうと思っていらっしゃったのかなと思います。

ほかにも、戦略と戦術の違いや経営者がどんなふうにものを見ているのかとか、人の気持ちを考えて行動することの大切さとか、いろいろなことを教えていただきました。

松原さんをはじめとするいい上司に恵まれたおかげで、阪和では「ひとつ上の階級に挑むけれども、できるふりやわかったふりをしたらいけない。わからなければわかるまで聞くこと」を学べたと思っています。

「何があっても社長の僕が責任をとる」

——阪和での短くも濃い経験を経て、24歳のときに山田水産に入社します。前年は養鰻事業がスタートし、有明町に養鰻場(※)を新設したタイミングでした。

※鰻を養殖する池のこと。コンクリート製の池をつくり、ビニールハウスで覆い、鰻の生育に適した30度前後の水温に保っているところが多い。養鰻や鰻事業については別の記事で詳しく!

僕は入社早々、養鰻の新規事業に携わることになり、蒲焼きの新工場の運営・管理を任されていました。

いまでこそ僕は鰻に関してある程度知見がありますが、当時は知らないことだらけです。養鰻を担当する社員たちは、土木やハウス建築、電気、設備の専門業者たちに混じって、配管の敷設を自分たちでやっていました。いま、第1〜5まで5ヶ所の養鰻場がありますが、給排水やボイラーの温水配管は全部自分たちでやってきたんです。

だから彼らは養鰻場の仕組みを知り尽くしています。水温や水の入れ替えはコンピューター制御で24時間365日、集中管理しているとはいえ、停電やなんらかのトラブルに備えて、水のことも電気周りも理解していないとできない仕事。

そういうのを一番わかっていないのは僕なんです。僕は現場をいい雰囲気にする担当(笑)。「僕が責任をとるからやっていこうぜ」とみんなを鼓舞していく役割というか。

そう言うと、さっきの「わかったふりをしたらいけない。わからなければわかるまで聞く」と矛盾するようですが、「わかろうとしないこと」が大事です。

僕はいまからその道のプロにはなれません。でも、山田水産にはその道のプロフェッショナルが育っていますから。入社して25年経ちますが、周りにいるのはプロばかりです。

——頼りになるプロたちがいるおかげで、安心して任せられるということですね。

その通りです。信頼できる人を配置して、バックアップしています。たとえば、養鰻事業統括部長の加藤には、シラスの買い付けでに総額20億円以上もの買い付けを任せたときもあります。
水産加工部長の原尻にも大きな予算を持ってもらっています。毎年アイスランドにししゃもの買い付けに行く原尻からLINEが届くのですが、彼自身の考えを聞いた上で、「原尻に任せる、何かあっても社長である僕が最終的に責任をとるから思い切っていこう!」と伝えています。

社長はトレーナーでありコーチでもあると思うんです。だから、信頼されるためにみんなとコミュニケーションをし、いいチームワークを保つことを意識してやってきました。いいパスを出して、相手を輝かせる自信はありますよ。

——入社11年目で事業統括本部長に、21年目で代表取締役専務に、23年目で代表取締役社長に就任しています。各時期で見える景色が変わってきたと思いますが、いまはどういうことをやりたいと思っていますか。

山田水産で働く人たちのすごさを世の中に伝え、彼らがやっている仕事が評価されるよう、仕掛けていきたいです。noteを始めたのも、そんな狙いがあるからです。

うちは本社のほか3つの事業所(有明・垂水・石巻)と5つの工場(志布志・垂水第2・浦代第1・楠本・島浦)、5つの養鰻場を持っています。

すべての現場でみんなが高い意識と責任感を持って、ものづくりをしています。

山田水産といえば鰻のイメージが強くて、それはそれで誇らしいことでもあります。でも、鰻を育てている人、加工している人のすごさは伝わっていないんです。もちろん鰻以外の製品についても同じことがいえます。

あり得ない話をしますが、もし仮に鰻事業がなくなったとします。それでも、うちのメンバーが揃えば、他のビジネスもできると思います。それくらい強い組織ですし、鰻やその他の水産加工を通じて培った技術の横展開ができるということです。

僕は社長として、経営者として、山田水産の価値、そこで働く人たちのすごさを伝えることに、より力を入れていきたいと思っています。

編集後記

うまくいかない時期に苦しんだとしても、自分の得意なことややりたいことを通じて、前向きに活動できる場所をつくる——野球部を創部した原点はもちろん、「わからないこと」に対して素直に向き合って学ぼうとしたり、競技(経験)で得た学びを仕事に生かしたりというのは、私たちでも取り入れられそうな気がします。

そして、自分との約束を守る、自分に負けないとする姿勢はストイックに感じられますが、なりたい自分になるために必要なことではないでしょうか。些細なことからでもいいので、自分で決めたことを続ける習慣を持とうと、強く思わされたのでした。

山田水産企業情報
https://yamadasuisan.com/

取材・構成/池田園子