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80年代の日本の田舎でプリンスを好きであるということ

前回、映画音楽の話を書いたが、その後も私の音楽の趣味は周囲から順調にズレたまま進んでしまうのであった。

中学生活が深まって部活や勉強が忙しくなると、かねてよりのエアチェックの習慣はなくなったが、ラジオを聞く習慣だけは残ってしまった。そして夜中にこっそり深夜放送を聞くうちに、興味は以前からちらほら耳にしていた洋楽の方に移っていった。

そもそも、愛聴していた映画音楽の番組は、クラシックなものばかりでなく当時の新作映画の主題歌も流していたので、自然に洋楽ポップスやロックへの親しみも芽生えていた。当時は映画がぞくぞくとヒット曲を生み出していた時期であり、自分も映画音楽を聴いているつもりで「フットルース」とか「フラッシュダンス」とか「ゴーストバスターズ」なんぞを聴いていたのである。下地はすでに出来ていたのだ。

そんななか、AMの深夜番組を何気なく聴いていた時。当時流行っていたビリー・ジョエルの「イノセント・マン」が流れてきて一発で好きになり、そこから私は本格的に洋楽にハマっていったのである。周囲はというとようやく色気づき出した同級生が兄の影響でアースシェイカーや佐野元春などを聴き始め、ヤンキーたちは矢沢永吉にかぶれ、アイドル好きは中森明菜を、女の子はチェッカーズをきゃいきゃいと聴く時代に突入していた。そこに洋楽好きの居場所は、まあ無いわけでもなかったが、そこはそれ田舎の中学校の悲しさ。自分と同じ嗜好の友人は望むべくもなかったのである。当初は。




ところが。そのころ同じ部活にT夫という友人がいた。このT夫は当時周囲からだいぶズレていた私から見てもかなりクセの強いキャラだったが、実はこいつが重度の洋楽マニアであった。

趣味に共通点のあるこの友人と私はたいへん仲良くなり、彼から知識を吸収していった。小学生のころからツェッペリンやパープルを聴き、マイケル・ジャクソンを「産業ロック」と切り捨てる元祖ロキノン系のT夫の手ほどきで、自分の洋楽世界はズンと開発されてしまう。ビリー・ジョエルという洋楽ファンとしてはまだちゃぷちゃぷの浅瀬にいた自分を、ビートルズやストーンズやクイーン、デヴィッド・ボウイやT.REXというバキバキの大洋へ連れ出したのがこのT夫であった。



中学生になり、子供だけで校区外に出ても良いという自由と、アップされた小遣いを得た私は、T夫に連れられて貸しレコード屋なる店の入り口を初めてくぐった。T夫を見習って会員になり、初めてLPを借り、T夫の家のプレイヤーを借りてそのレコードをテープに落とした。なにかこう、新しい世界が拓ける感じと、少し大人になったような誇らしい感じがあった。T夫の家にあったロック名盤事典を読み耽り、彼の手持ちのテープを聞かせてもらい、13歳になるかならぬかのフレッシュな頭脳は順調に記憶領域を消費。もはや私は取り返しのつかない洋楽ファンと成り果ててしまうのである。

貸しレコード屋に毎週のように通いつめ、自宅の家具調ステレオからラジカセにラインで録音する方法も覚え、FMレコパルなどを買い求めてオーディオ方面の知識も蓄え、テープのコレクションは順調に増えていった。ビリー・ジョエルやビートルズは片っ端から聴き倒し、当時の流行りも手当たり次第に聴いた。勢い余ってなぜかアルフィーやアル・ヤンコビックまでも聴いていた。ラジオではFMの「サントリー・サウンドマーケット」を愛聴し、ここで昨今の洋楽の名曲をガンガン知り、気に入ったものは貸しレコード屋に行って借りてきた。お年玉を貯めて自分のレコードプレイヤーも買った。ホームセンターでコンクリートブロックを買ってきてプレイヤーの下に敷いたりもした。さらに録音したレコードについてはタイトルや曲名の原題と邦題をノートに書き留め、インスタントレタリングでキレイにテープのラベルを作り、あまつさえ歌詞をノートに書き写して自力で翻訳を試みるなどしていたのである。なんだろうこの情熱。今同じことをやれと言われても多分すぐ音を上げる。暇だったのか。それとも中学生男子特有の童貞パワーなのか。


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とはいえこのあたりの経験は、聞く音楽や程度の違いこそあれ、当時の中学生ならだいたい通る道だったように思う。中3くらいになってくると、音楽好きな奴らは勢いでバンドを組み、BOΦWYやレベッカのカバーを始めたりしていた。その一方で男子はおニャン子クラブにハマる者が出始め、やれ高井麻巳子だ渡辺美奈代だと自分の推しの魅力を日々とくとくと語っていた(ちなみに私は国生さゆり派だったが、なぜか自分の周囲では嫌われていた。なんとなく「性格悪そう」というのがアンチ派の主な意見だったが、なぜそうなるのか今もって全然わからない。このへんもズレていたといえる)。



そんななか、中学の終わり際から高校にかけて、私はとあるアーティストを大変に気に入ってしまった。

プリンス。

いや今でこそレジェンド中のレジェンド、その天才っぷりは世界の認めるところで、音楽界の大巨人であったことに異論はないと思う。過去形で語らねばならないのが大変に悲しい。



しかしである。私が10代だった頃、田舎の中学高校では、プリンスを好んでいると公言しようものなら「キモチわるーい」と一蹴され、人格や性癖すら疑われかねないというキワモノの最右翼であったのである。



たしかに当時のプリンスと言えば、中性的かつ変態っぽいルックス、奇声に近いファルセットやシャウト、くねくねした奇妙な踊り。そしてPVもなんとなく卑猥である。苦手な人はとことん嫌うであろう。

特に女子ウケが最悪であった。当時仲の良かった女子から「プリンスだけは無理!絶対無理じゃけん」と弁護する間もなく断言され、私は秒で「うむ、これは隠しとこう」と判断。自らのプリンス好きを隠蔽した。気分は隠れキリシタンのようであった。「眠猫君もしかしてプリンス好きなん?」「え、いや、別に、そうでも…」

悲しかった。確かに半裸でくねくねしていたり、声もオトコオンナみたいだし、変態っぽくはあるが、そこがいいんじゃない!(©みうらじゅん)。曲のきらめくポップさに圧倒的なビートの気持ちよさ、そこにあのキワモノ的ルックスとパフォーマンス。



もう一度言う。そこがいいんじゃない!(©みうらじゅん)



親しい友人が家に来たときには勢い余って「ベストヒットUSA」で録画したプリンスのPVを見せてしまうこともあった。しかしその友人はプリンスを蛇蝎のごとく忌み嫌っており、「こいつだけは許せん!」と親でも殺されたかのような厳しい論評を加えるのだった。悲しかった。ただ彼もプリンスの異常なギターの上手さには気づいたようで、やっぱり判るやつには判るのだな、やはり本当の天才は違うぜ。さすがだぜ。と傷つきつつも変な満足感があった。

映画「バットマン」が大流行した1989年、高校では文化祭の準備をしながら教室で音楽を流していたりした。同級生がプリプリやガンズのテープをかけるなか、私はささやかな抵抗としてこっそりプリンスの「バットダンス」を混ぜて流したのである。すると数少ないプリンスを理解する同級生がそっと近寄ってきて「…いかんよ眠猫君。学校でプリンスなんか流したら…」と暗い目でささやくのであった。同じプリンスを愛する者として、まさか彼も迫害されてきたというのか。辛い目に遭ってきたというのか。そしてそれゆえにおのれの愛を隠さざるを得なかったというのか。まさに隠れキリシタンである。



幸い、海の向こうではプリンスの評価は当時から大変なものがあった。日本でも、一部アーティストや評論家筋から熱烈な支持を受けていた。そこはプリンス好きとしてはたいへん誇らしくあったが、だんだん迫害されるにつれてその気持が「しょせんお前らにはプリンスの凄さはわからんだろ…」というひねくれた選民意識に変わっていった。よくない徴候である。そんななか「バットマン」の大ブームからプリンスにも一般レベルで光があたり、ファンとしては「どんなもんじゃい、時代が追いついたんじゃ」と大きな顔をしたい気持ちであったが、そのちょっと前に出た「ラブセクシー」のジャケの全裸プリンスを見ては「いかんいかん」と我に返ったのである。あれは流石に当時のプリンス好きもちょっと引…



い、いやそれはともかく、今となっては「プリンスが好きで」と公言しても「えっ…」と微妙な顔をされることはまず無くなった。良かったと思う半面、あのひねくれた選民意識も、いまとなってはちょっと気持ち良かったかも知れぬと思う。この街では私達だけがこの天才を理解しているという、選ばれし者(誰にだ)の恍惚と不安というものがアレだったのかも知れない。そしてそう思ってしまうほど、田舎の中学生の世界は狭かったのだな、と今にして思う。

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