バイバイ、与那国島。

わたしには放浪癖がある。今はコロナと金欠で放浪できないけど、25才の時に親に内緒で佐世保の実家から横浜の姉のアパートまで家出した。まあ姉の家なので家出とは言わないのかも知れないが、「20代前半の内に東京の風にさらされなくては!」という思いから一人格好をつけて寝台特急に乗った。高校の修学旅行で京都・奈良に行ったのが一番遠くだった私にとってはなかなかの冒険だった。めっちゃオリーブ少女な格好の私を見て姉は笑った。渋谷系にドはまりしていたのだ。

姉の家には「ちょっと遊びに来た」と言って半年居た。横浜や中目黒でいろいろバイトした。テリー伊藤がプロデュースしてた「カオキン」という金万福がシェフをしていた店でも働いた。「東京の水にはなじめないな」と思いアルバイトニュースを店頭で眺めていたら「与那国島民宿アルバイト募集!」という記事があった。与那国島?どこだ?全く知らない場所だ。沖縄県とあるので別コーナーの沖縄ガイドブックを立ち読み。「日本最西端で馬がいる」ぐらいしか自分的にはヒットしなかったが、この二つに強烈に惹かれた。端っこ病(いろんな場所の端っこに行きたくなる病気)の発病だ。すでに沖縄病には侵されていたので「沖縄+端っこ」これはもはや行くしかないやろ。

無事に与那国島でのバイトが決まり期待より不安が勝る中、東京から那覇へ行く船に乗った。この時期はチャリダー(自転車で各地を回る人)とライダー(バイクで各地を回る人)が多くフェリーを利用していた。26年間生きて来てそんな人たちと初めて遭遇した。自由だ。

那覇-石垣はまたフェリー、石垣ー与那国は今は飛行機に乗って無事に与那国島にたどり着いた。「泣きながら茶碗を洗うのだろう」という憶測をよそに涙は一滴もこぼれなかった。たのしー!じゆー!快眠!東京からわざわざ来るべきだったよ与那国島!!!

移動手段は徒歩かバス(たまーにしか来ない)か逆ハイク(若い女の子が歩いていると拾ってくれる)だった。でも民宿の付近には食料品と雑貨を売っている店が二つあったので、最低限の本当に最低限のものは何とかなった。でも島には本屋もCD屋も無く、お客さんの置いて行った本や貸してくれるCDが新しい情報だった。ラジオも当時はNHKとNHK-FMしか入らず、台湾のテレビをぼーっと意味も分からず見たりもした。

島には「パネス」というパン屋があるのだが、隣の集落だったので「憧れの」パネスだった。バスに乗ってたどり着いたらすでに売り切れということもよくあった。焼きたてふんわりパネスのパン♪

そんな感じで過ごしているうちに島の大農繁期!「製糖」の季節がやって来た。農閑期に当たる北海道を中心に各地から若者が(おじさんもいたりするが)与那国島に集まって来る。仕事はサトウキビ刈りと製糖工場での勤務の二種類だ。私の働いている宿には35名前後が宿泊した。小さい宿なのではぼ満室状態。製糖工場組が泊っていて工場は二交代制なので一部屋を4人で使う。清掃は帰って来る人が寝るので基本的には無しで、私たちの仕事は朝昼夕食と夜食の弁当作りと弁当の工場までの配達。

慣れてくると心にも余裕が出て援農隊(サトウキビの仕事をしに来た人たちのことをこう呼ぶ)の人たちとも仲良くなった。街から普通に出て来た大学生風な人からやたらとアクの強い人までいろいろいた。去年ヘルパー(民宿のアルバイトの人をこう呼ぶ)だった人が援農隊になってたりもした。仕事はきついらしいけどまとまったお金になるので毎年来る人もいた。

夜勤の人が帰って来るのが朝の8:30ごろで彼らには日勤の人の朝食が夕食になる。その後はシャワーして朝酌だ。朝だけど。私も仲良くなった人が夜勤明けの時はこの朝酌によくお付き合いした。そして彼氏にもなった。それは島で熱くなって内地に出ると別れる「援農ラヴァーズ」。私も大阪から彼の実家の岩手まで行ったら何か友達みたいになってしまった。でも私のサトウキビはとても甘かったので、実は再婚までした今でも甘みはまだ口に広がる。

与那国島によほど愛されていたらしく、その後二度同じ民宿で働き、遂には結婚し二子をもうけた。けれども私は結局芯のところまでは島に馴染め切れずに10年で島と縁が切れた。島のサトウキビは甘いだけではなかった。事情から子供二人を島に置いて出たことが長年悔やまれたけど、もう二人とも成人して内地の大学に行っている。それでよかったし、それしかできなかった。バイバイ、与那国島。



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