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エンタングルメントの約束

『死にたがりの完全犯罪』シリーズ(TOブックス)より
 ノーベル物理学賞「量子もつれ」記念SS

【エンタングルメントの約束】


 二〇二二年十月四日午後九時二十分過ぎ――
 家の中ではほとんどスマホをさわらない同居人、かつら月也つきやがやたらとニュースサイトを気にしていた。日下くさか陽介ようすけはアールグレイを入れた白と黒のマグカップを手に、月也が寝そべる臙脂色のソファに近付く。
「何かあるんですか?」
「ん……」
 生返事で月也は体を起こす。いつものように右端に座り直し、左手をさまよわせた。白いマグカップを持たせてやると、「あ」と声をもらす。直後。
「量子もつれだ!」
 左端に座った陽介に向けて、印籠のようにスマホを突き付けた。首を捻り、陽介は表示された速報に目を通す。
 二〇二二年のノーベル物理学賞の記事だ。
 受賞者は三名。「量子もつれ」の存在を示し、量子情報分野に貢献したことが讃えられたらしい。
「あー、今日だったんですね」
 陽介は納得して、アールグレイに微笑む。桂月也は物理を愛する科学の徒だから、あんなにもソワソワしていたのだ。そして、量子論は彼の好む分野だから、こんなにも浮かれているのだ。
「量子もつれですかぁ……」
 よかったですねぇ、と微笑んだまま陽介は立ち上がる。リビングテーブルに黒いマグカップを置き、キッチンに向かった。
 月也なら絶対、解説を始める。大学では家庭科教育を専攻している陽介には、物理学の知識が欠けていることを分かっているから。
(楽しそうなのはいいんだけど……)
 小難しい話には糖分が必要だ。陽介は冷凍室を開け、常備してあるアイスボックスクッキーの生地を取り出す。ココア生地だからアールグレイのベルガモットの香りに合うだろうけれど、焼き上がるまでに冷めてしまう。タイミングが悪かったな、と思いつつ、八枚分だけ切り出した。
 オーブントースターに並べ、時間を設定する。
 色々と察したらしい月也が、両手にマグカップを持ってキッチンに入ってくる。
「逃げた?」
「それならクッキーなんて焼きませんよ」
「それもそうか」
 短く笑った月也は陽介にカップを持たせ、冷蔵庫に寄り掛かった。アールグレイで喉を潤してから、ふらりと視線をさまよわせる。
 量子もつれの――語りの糸口を探すように。
「ロマンティックな言い方をすればさ、量子もつれってのは『何光年離れていてもあなたのことを瞬時に感じる約束』ってとこかな」
「本当、ロマンティックですね」
「だろ? 光の速度なんか飛び越えて、対になった物質の状態を感じ取るんだ。その観測に合わせて、自身の状態も変化させる……もつれ合う糸のように、つながり、関係しているって、すげぇ不思議な話だよな」
「それが解明されたんですね」
 ノーベル賞だけあって、陽介には理解できそうにないけれど。この宇宙の秘密がまた一つ解き明かされたとするならば、やはり凄いことなのだろう。
 けれど、月也は左右に首を振った。
「量子論なんて簡単に解明されねぇよ」
「……え?」
「量子もつれの根幹は、局所性の問題にあるんだよ。AとBが別々の場所にあれば、それは局所的で、情報をやり取りするのは光の速度の範囲になるはずだっていうのが、古典物理学に寄った領域の話だけど。もつれ合っていて、AとBが瞬間的に関係してしまうとしたら、それは非局所的じゃないかって。結局観測の話になるんだけど、Aを観測した瞬間にBのことも知ってしまえるのは、奇妙じゃないかって。俺たちの手は宇宙の裏側には届くわけもないのに、何がそうしているんだろう……っていう哲学だな」
 陽介は分かったふりをして頷き、加熱されるココアクッキーを見つめた。香りばかり甘くても、脳に糖は届かない。
「ざっくり言えば『空間』の概念がなくなるよねって話。空間がなくなって距離がなくなれば、瞬時に情報が行き来してもおかしくないんだから」
 陽介はもう、眉を寄せるしかない。最近の物理学は、とうとう空間までなくしてしまったらしい。でも、そうなると、こうして自分が立っている「ここ」はどこになるのだろうか。眩暈を覚えるのは、空間など本当は存在しないからなのか……。
 いや、と陽介はきつく目を閉じる。細く息を吐き出して、自分の居場所を確かめるように目を開いた。アールグレイの香りを鼻と舌で感じた。
「じゃあ、何がノーベル賞なんですか?」
「現象としての『量子もつれ』を実験で証明したこと。どういう理屈で量子もつれが起きているかは分かってねぇけど、もつれた量子は存在するし、瞬間的に情報はやり取りされるんだ。まーそうなると、結局世界は存在しなくなるかもしれねぇけどな」
 ケラケラとなんでもないように月也は笑う。どこか悪魔めいて見えるのは、癖の強い黒髪のせいだろうか。陽介がため息をこぼすと、慰めるようにトースターが鳴った。
 蓋を開ければ、いっそう甘い香りが広がる。
 その香りを追うように、月也はゆっくりと、目線をトースターから天井へと移動した。
「例えば、今外を歩いている人がいたとしたら、クッキーの香りを感じるかもしれない。この家ではクッキーを焼いたんだな。あっちの家は夕飯がカレーなんだな……そんな風に無関係に感じることってあるじゃん。その家の人間でもねぇのに、知ることもできる。空間がなくなるってそんな感じで、どこかで誰かが知っていてくれるって話でもあるんじゃねぇかなって」
「ひとりぼっちじゃないよ、ってことですか」
 陽介も天井を見つめる。ココアクッキーの香りは目には見えないけれど、この香りが届いた誰かが、何かを思ってくれたなら。
 一人ではないと、ふっと感じてくれたなら……。
「もつれてるってそーいうこと」
 月也は得意そうにクッキーを口に放り込む。まだ熱かったらしく、慌てた様子でマグカップを傾けた。陽介は肩をすくめ、呆れた気持ちでアールグレイをすする。
「カッコつけてもこれだもんなぁ」
「うるせぇ。俺は別にカッコよさで物理を語ってるわけじゃねぇよ」
「はいはい。知ってますよ」
 自分が好きなものを、他の人も好きになってくれたら嬉しいから。そんな自己都合。だから月也の喩えは、日常生活を交えることが多い。
 そうして披露される物理を、自分はどれほど理解できているのか。陽介は自信を持てないけれど、いつも思うことはある。
「本当、物理って関係性の学問ですね」
「だからいいんだよ」
 やっぱりカッコつけて、月也は二枚目のクッキーを口にする。耐えられる温度にまで下がっていたらしい、ますます得意そうになった。
 陽介はやれやれと短く息を吐き出して、ココアクッキーをつまむ。
 ほんのりと温かな甘さが、脳に優しかった。


*エンタングルメント……量子もつれ


【参考文献】
『宇宙の果てまで離れていても、つながっている 量子の非局所性から「空間のない最新宇宙像」へ』著者・ジョージ・マッサー 訳者・吉田三知世(インターシフト)2019


『死にたがりの完全犯罪』シリーズ
 新型感染症下を過ごす大学生の日下陽介と桂月也は、ステイホームの暇つぶしに、日常の謎を解くオンライン探偵「理系探偵」を始めます。
 その中で自分たちの「家族」との間に抱える問題と向き合ったり、物理を語ったり、量子論の考え方で日常を捉えたり……そんな、エンタメ、キャラクター小説です。