キャリコン(後半)
・・・<昨日からの続き>
私はこの歳になるまで、社会の役に立ったことはないし、役立つことも特にしてこなかった。変な人間なのかもしれないが、自己肯定感の低い人間なので、自分には役に立つことなど出来ないと思っている。そう考えると世の中の人の中の自己肯定感が高い方々は、自分の行動が誰かの役に立つ、周囲を幸せにする、社会のお役立ちになると考えるように見えるが、本当にそうなのだろうか。勝手にそう思っているだけなのではないだろうか。
もちろん私は誰かの邪魔をしようとか、何かを破壊しようという考えは微塵もないが、幼少時から今現在まで自分が役に立つと思ったことがない。
何かの、誰かの役に「立てれば」とか、役に「立つように努力したい」と思うことは日々あるものの、それは自分に課した努力であって、本当に役に立つかと言えば自分では分からない。周囲が評価するものだからだ。
それを、この元CAのキャリコンのように自らの口で「私は社会の役に立っている」と自画自賛していたのが、少し気になった次第である。もし現時点で社会の役に立っていると自覚する人がいたとしたら、その人は今をこれからも継続していくのだろうと思うと、成長が無いのではないかと思うのだ。もちろん「完成形」であるなら素晴らしい限りで、後光を感じる。
でも、キャリコンの完成形ってなんだろうか?とも思ってしまう。誰が相手でも望む仕事に就けさせ、就業を継続させられる力があるのであれば、是非とも65歳未満の(特に20代、30代で)生活保護受給に甘んじている多くの人々を、率先して就職させて欲しいものである。
そのようなことが出来るのであれば、その人はキャリコンとしては完成に近いし、何処かの企業に登録してキャリコン業務をやっているだけでなく、まさに社会の役に立っているといえる。私は、そのような力こそキャリコンに期待したいと思っている。それ以外のキャリアのことは、例えば私自身が早期退職後に就労移行支援の仕事や、教育機関でキャリアデザイン講座をやってきたので、いまさらキャリコン様のやることではない。キャリコン様には、もっと「泥臭い現場の仕事」で社会に貢献して欲しいと思う次第である。
逆に私のように、社会の役になっていないが、何かの役に立てるように努力したいという人がいるとしたら、その人は今後もずっと努力をし続けるだろう。後光もなく、尊敬もされない未熟者ではあるが、これじゃだめだ!と職人のようにもっと良い物をと、死ぬまで熟練を目指して修行を続けるだけである。
仕事には終わりというものがないのではないだろうか?そして、そんなに簡単に「自分は社会の役に立っている」と言わない方が良いのではないかと思った次第である。そう言った時点で、その人の成長は終了してしまうのだから。
#note #エッセイ #高齢者 #フリーター #役立たず
【記】やく・たたず(屋久 佇(竚))
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