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政教分離(最近、大きく形骸化していた事が言われている)をどう捉えるかについて

2022-7-006

信教の自由の弊害は、市場や民主制の問題と同じで、内実の確からしさの差異が無視される(分離で満足する)保障観という典型的な近代問題で、

政教分離は、帰属の修正を阻害する類の個別宗教の影響力が政治、ひいては社会に反映されたり、政治の力で護られたりを抑えてくれる次善の策でないかと個人的には思います。

(最近言われてる事が事実なら、この意味での次善の策でも、例えば、戦争の反省に関して、奪う奪われる事態全般に対する否定を、
言い換えると、各場の疑似でない固有性に即した割り振りへの支持という意味のフェアへの志向と整合的な反省を、
阻害する内容の信仰が強いられるらしい宗教団体の深い政治関与に当たりますから、明確に形骸化していたと言えます。)


例えば、同種の他との共通要素の捨象に十分さらされた内外事情にだけ応じる主体しか市場に参加させない(需給事情に個々事情を反映させない)といった解決は現実的でない
(共産系のような、需給事情の実態を軽視する反動反発型も、現実との齟齬を抱え続けるという低通用性を強いられる)と思うので、

その主体像でないまま無限存在なり人間的有限性を越えた存在なりとの関わり方を決めてる事による、理想に対して現実という具体化条件が過剰に割り引いてしまう問題の信仰版、
つまり、無限存在と有限存在の関係改善の形骸化(信仰の形骸化)に関しても、

文系教育を受ける事で、そういう主体像に近づいてく教育(特に、場の疑似でない固有性と着目無視との合致の理系版と文系版を、
同種の他との差異要素捨象処理と共通要素捨象処理として捉えて、客観視処理と、求め過ぎずフェアを越えない姿勢とを文理の両輪とする義務教育)に替える、
というアプローチの方が見込みも、対宗教の実態との齟齬抑制期待もあるのでないかと思います。

ご支援の程よろしくお願い致します。