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3369文字、倫理実践(ひいては、哲学実践)を、既存の権威(例えば、救済対象の網羅性を誇るそれ)から解放する為に押さえるべき理解

2023-8-004

不当な扱いの受け手について、自己から始まって他者他種無生物概念等にまで具体形パターン網羅を展開していく(対自己に関する井の中の蛙状態を緩和していく、

つまり、理解は対象に関して持ってる抽象具体関係構造の像でしかない点を踏まえ、
抽象次元の確からしさを向上させるほど、それに伴い捉え直された個々具体の内実確からしさも向上する構造に乗っかる)と、

利害不一致的事態は前提で、扱い差異(選抜込み)の根拠を各場の性質とする、場の性質の下の平等でしか、不当でない扱いを為す対象についての具体形パターンを網羅してる形にはならず、
結局、場に置かれたものが場の性質に即した扱いを受けてる時、表面上どう見えようが、不当な扱いは生じてない、と解するしかなくなるのでないかと考えます。


また、その場合でも、場の性質とされてるもの(内面世界や社会において割り振り原理になってるもの)が、
疑似化してるなら扱いの良し悪しによらず否定され、疑似化してないなら扱いの良し悪しによらず肯定される、

この観点(より確からしいものが取って代わる運動性を無限性と見れば、場から受ける限定作用に無限性を内包させてる程度)を踏まえた修正余地はある為、論点はここになるとも考えます。


逆に、場の疑似でない固有性に即した割り振り(ポジションや具体的有り様の規定)への支持の意味でのフェアを、
志向してない時点で、上の具体形パターン網羅が量的に足りてない(網羅性を誇ると量的優秀性を偽装してる側面が生じてしまう)と言えるように思いますし、

フェア志向(あるいは、その拡張としての、代替不可能な内外事情にしか応じてない形の現象像への志向)を、
個々具体の評価にも適用する(具体形パターン網羅に、具体化精度という条件を課す)事で、

低精度実験の結果のフィードバックによる仮説改悪的事態が、抽象次元に生じるのを、
ひいては、不当な扱いという現象の理解(抽象具体関係構造の像)の上限化にいらぬ限定与えたまま事態を肯定否定する倫理実践に陥る

(対概念での不当な扱いを修正できる能力が、哲学実践には要求されてるとすると、
陥ってる人の哲学的主張を真に受ける必要は、たとえ権威が付されてようとも割り振り原理の疑似化故であって、ない)のを防ぐ事にもなるはずです。



そもそも、現象は内在性質と外在性質の統合体(つまり、割り引かれ込みで現象)であり、
両性質が代替不可能的であるほど確からしい(この意味で、抽象物と具体化条件は価値対等)為、両性質の代替不可能化が対現象の論点である、

この現象観を採用してれば、内在不問外在軽視(特に、外在性質から内在性質を保障や解放するイメージ)な典型自由観が選ばれる事はなく、
感情の無加工表出にしても、内在場の産物が外在場と無関係に取り出された出来事ではなく、
それが可能な局面であったか、そう誤解しただけ、つまり、外在場の性質と結びついた出来事という解釈になるはずです。



(外在場の性質が疑似化してた場合、具体化条件は代替不可能的ではないと言える為、
具体化条件を可能なだけ剥ぎ取るという抽象次元への遡りを一旦経て、引き受けざる得ない具体化条件として割り出されたものを付し直した像との乖離部分を、
修正余地が保存されてる部分、ひいては、現象が確からしくない原因として位置付ける事になるけれど、

同種の他との共通要素捨象を機能させられない人による、文系事象に関する抽象化具体化の不十分さ解消状態の像構築は、文脈取り違え状態での意味把握のごとく、的の外れた帰結に至ります。)


例えば、言語化で生じる割り引かれについても当然、大騒ぎや見て見ぬ振りをせず、
限定化(通用領域減)に伴う確からしさ低減を、限定理由の代替不可能化による確からしさで補填できているいない、

より正確には、被限定が除去された状態の準備と引き受けざる得ない限定条件の割り出しが十分かどうか、
言い換えると、抽象化具体化の不十分さが解消されているいないの差異部分を、修正余地として押さえにいくはずです。


対象に関して持ってる抽象具体関係構造の像(現実が持つ複雑さに通用してるつもりなそれ)である理解や実力に関しても、
抽象化具体化の交互反復(通用が行き渡ってる状態を保存しつつの表層形変転のつもりなそれ)である論理展開や歴史展開に関しても、同様に押さえ、可能なら修正するとして、

その際の具体化条件を、代替不可能な内外事情にしか応じない実存にしてる場合は、
具体化結果がどのようなものでも、現象としては確からしいと肯定しましょう。

逆に、個別性が根拠にならない局面では同種の他との差異要素捨象(を用いた抽象化具体化)に応じるけれど、
なる局面で同種の他との共通要素捨象(を用いた抽象化具体化)に応じない対外在事情の持ち主の、
文系的な理解や論理展開に対しては、倫理的権威や知的権威の付され具合によらず、現象として確からしくないと位置づけましょう。



また、上の現象観と整合的なその実存(局面と着目無視の合致への志向を持つので、
フェアはもちろん、見て見ぬ振り含む妄信系と大騒ぎを含む反動反発系の同時否定も、

個別性が根拠にならない局面では同種の他との差異要素捨象を、なる局面では同種の他との共通要素捨象を引き受ける論理像も期待できる)と、
同内容の主体像ではない主体同士の間に立ち上がってる関係は、協調系であれ競争系であれ、修正余地がある(現象として確からしくない)、

との理解があるなら、例えば、戦争やいじめについての話のこれまでの持ち出され方は矮小化されてる、という事実に気付くはずですから、
主体間での分かりやすい問題発生に対し良くて小手先の対処が図られるだけ、というこれまでの世界有り様の原因は上の現象観の不在と言えて、


上の現象観と整合しない問題や解決を疑似問題や疑似解決として扱うよう働きかける内容でない哲学
(例えば、割り引かれに大騒ぎして、場に合わせる合わさないの表層形二択に話を閉じ込め、

場の表層に合わせる類の空気読むや、引き受けざる得ない特定時空性の産物であるかを検討しない類の対常識に対する、小手先対処な単なる符号反転に価値創出感を持たせる偽装、
例えば、注力的な問題解決でしかない意識自体を、上の現象観と整合させてれば捨象される疑似問題化によってこねくり回した産物のまき散らしなど)は、この不在に加担してる側なのだと認めましょう。



例えば、求め過ぎる者の登場を抑えるべく個人の精神を縛っても(この方向性に国家の権威や科学の在り方を整合させても)、
現実との間に来してる齟齬の影響を抑えるという問題(収拾のつかない分断展開もあり得る)にすり替わるだけなのが中世ヨーロッパの教訓でしょうし

(ちなみに、反動反発な分離処理による解放も、余裕のない近代始点では次善の策と見なせますから、分離処理への過大評価が今なお続いてるのは余裕が生じて以降の責任で、

分離した双方の有り様について具体化精度が問われない点にその過大評価の弊害がある為、
問われてないままなものの統合に解決見る疑似解決は、単なる成立から内実へのコミットに、
つまり、量から質に移行する内容の上の現象観の不在故の表層形反転的発想が、近代性脱却失敗に帰結してる事例です)、

求め過ぎるA(例えば、資本家階級)を排除しても同Bが取って代わるだけなら問題の着せ替えに過ぎないわけですが、


代替不可能な内外事情にしか応じない主体像と獲得喪失とを整合させる処理は、そうした小手先の対処とは別物であると、
その処理は主体を縛るのでなく、主体の個別性を疑似化(仮説改悪の歴史)から解放し、

また、主体像が対象にとっての具体化条件となる時、他の主体像はこの主体像よりも割り引いてしまう為、この主体像は対象を過剰な割り引きから、したがって、形骸な尊重からも解放してる点、
その主体像だけから成る社会を目指す方向性(市場や民主制も、需給事情をその主体像群における個々事情から構成させにいく方針)をもって問題の着せ替えは回避される点、

これらから言えると認め、その主体像でない者(同内容の現象像でない概念にも拡張)に影響力を持たせる働き
(その結果の、確からしくない現象の連鎖)が、何の名の下に働いてようとも、そこに与するのは止めましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。