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未来の為にすべき事のうち最も重要と思われるものについて(千字超の省略無しバージョンも付記)

2022-9-006

未来の為にすべき事の内、近代思考から脱してる人を増やす事が最も重要との理解を広めましょう。

科学の在り方や個人の精神に関して、分離を達成させただけの地盤の上に築かれた世界では文系は、
不当合理(理系センスの領域侵犯)と過剰特殊(同種の他との共通要素の捨象に十分さらされてないものの根拠化)の二択に縛られてしまうようですし、

分離の成功体験が過去のものになってるなら、場に合わせる合わさないの二択に話を矮小化して、
場の疑似化を剥いだ固有性にのみ合わせる方向性(具体化精度問題)を埋没させる事もないはずです。


例えば前者は、不当合理に対する、過剰特殊に道を開く類である否定反応が知的権威にも見られる状況を、
後者は、カントやニーチェの(割り引かれに対する、内実不問な理論と無条件忌避な実践の)流れ、
あるいは、ヘーゲル歴史観(統合対象や統合に対する、具体化ひいては抽象化に精度差異を見ない類の理解)の流れを汲むものが権威を持てる状況を齎してます。


逆に言うと、内実の確からしさ差異を区別できる理解力(思考への安易さ認定もこの水準で為されるいらぬ飛躍見出し)、
内実が確からしいならその反映と言える表層形は許容する開放性(表層形断罪をしない、変化への表層形が理由の肯定否定もしない方向性)、

対文系でのこれら(上で言う捨象に十分さらされてる事が、内実が確からしいと言える条件)を思考が持てれば、
近代思考(近代パラダイムに縛られてる知性や倫理)の弊害は防げます。


また、未来の為にこれをすべきと言われてるものが内実の確からしさを持ち、
かつ、余裕も有るのにそれをしない人も、自身の都合に適う努力はするわけで、

都合に内実の確からしさを持たせる(内外境界つまり差異を意味する有限の与件性、より確からしいものが取って代わる運動性、これらに帰属があると言える現象へと、
つまり、帰属の修正余地がない、負わせる負わされるに値するものへと、応じる内在事情外在事情を持ってく)事も可能になる上の要素持つ思考は、

(内実の確からしい有り様としての)未来の為に何かする余地を各々の条件下での上限にまで持ってく事を可能にすると言えて、


その上限からの乖離部分を否定対象としないのは過小要求、脱近代思考でなお負わさざる得ないものまで否定対象とするのは過大要求、
この理解によって、未来世代に対し押し付けてるとか奪ってる等の話も、より現実的に捉え直せるはずです。




以下、省略無しバージョン

未来の為にすべき事の内、近代思考から脱してる人を増やす事が最も重要との理解を広めましょう。


科学の在り方や個人の精神に関して、分離を達成させただけの地盤の上に築かれた世界では文系は、
不当合理(理系的センスの領域侵犯)と過剰特殊(同種の他との共通要素の捨象に十分さらされてないものの根拠化)の二択に縛られてしまうようですし、

分離の成功体験が過去のものになってるなら、
社会か個人かの上下論(社会も局面も内面世界も、場として、さらには、その性質を対象自体や対象側面の価値付け根拠とするものとして、
抽象化してれば、そもそも持たれない観点)に代表される、場に合わせる合わさないの表層形二択に話を矮小化して、

場の疑似化を剥いだ固有性にのみ合わせる方向性(加工の過不足抑制含む、具体化精度問題)を
(場に合わせる前後に対する、通用の行き渡ってる状態、通用領域の広狭と確からしさとの相関という前提に適う、つまり、その前提に通用してる選ぶに値する状態が、保存されつつの表層形変転とする企てであり、

その相関についての観点という場に合わせる前後に関する、狭義でない論理性確保の実質と言えるこの企てが、認識精度の上限問題に相当するそれを)
埋没させてしまう事もないはずです。注



例えば前者は、不当合理に対する、過剰特殊に道を開く類である否定反応
(つまり、肯定しようが否定しようが、表面の埃払いなり汚れ拭いなりで満足する実態主義である点は変わらない言動)が、知的権威にも見られる状況を、

後者は、カントやニーチェの(つまりは、割り引かれに対する、内実不問な理論面と無条件忌避な実践面の)流れを汲むもの、
あるいは、ヘーゲル歴史観(統合対象や統合に対する、具体化ひいては抽象化に精度差異を見ない類の理解)の流れを汲むものが、権威を持ててしまう状況を齎してます。

(割り引かれに内実を、内実の確からしさ差異を見ない為に、認識や存在の露呈的有り様を追究しても実態主義に留まってしまう、
という点が今なお権威を誇るカント系譜やニーチェ系譜から汲み取るべき教訓でないかと思われます。)



逆に言うと、内実の確からしさ差異を区別できる理解力(思考展開への安易さ認定もこの水準で為されるいらぬ飛躍見出し)、
内実が確からしいならその反映と言える表層形は許容する開放性(表層形断罪をしない、変化への表層形が理由の肯定否定もしない方向性)、

対文系でのこれら(上で言う捨象に十分さらされてる事が、内実が確からしいと言える条件)を思考が持てれば、
近代思考(近代パラダイムに縛られてる知性や倫理)の弊害

(特に、対文系における具体化精度無視、絶対主義化や相対主義化の原因でもあるそれによる、仮説の改善不全を含む精度の低い抽象化、ひいては、対象や世界の把握に際するいらぬ不正確さ、

フェアを越えてないならそれで良いとする具体化精度重視な態度への無理解、ひいては、権力や自他救済がフェアの確保でなく、アンフェアの押し通しな内容であっても疑問を持たれない状況)は防げます。



また、未来の為にこれをすべきと言われてるものが内実の確からしさを持ち、
かつ、余裕も有るのにそれをしない人も、自身の都合に適う努力はするわけですから、

都合に内実の確からしさを持たせる事(内外境界つまり差異を意味する有限の与件性、より確からしいものが取って代わる運動性、これらに帰属があると言える現象へと、
つまり、帰属の修正余地がない、負わせる負わされるに値するものへと、応じる内在事情外在事情を持ってく事)も可能になる上の要素持つ思考(脱近代思考)は、

(内実の確からしい有り様としての)未来の為に何かをする余地を各々の条件下での上限にまで持ってく事を可能にすると言えて、


その上限からの乖離部分を否定対象としないのは過小要求、脱近代思考でなお負わさざるを得ないものまで否定対象とするのは過大要求、
(内在事情外在事情の代替不可能な要素にしか応じない主体像でない事を否定対象としないのは過小要求、その主体像でない事以外を理由に自他の有り様を否定対象とするのは過大要求、)

この理解によって、未来世代に対して押し付けてるとか奪ってるといった話も、より現実的な方向へ捉え直せるはずです。


別の言い方するなら、無数にある問題発生状態(帰属の修正余地がある状態)の修正を、代替不可能な内在事情外在事情の下に具体化する、という話があるだけであり、

問題発生状態の把握や、修正したりしなかったりが、各主体で違ってくる事自体は問題ないし、対事情の代替不可能化が最大限であるならそこの有り様がどうであれ問題ない、

この枠組み(対問題の疑似化を、問題や解決との安易な関係を防ぐ、
ひいては、疑似性、負わされるに値しないそれに振り回されないし、それで振り回さない自他尊重が見込める生を確保する理解)に、
対未来を落とし込む事が、脱近代思考によって可能になるはずです。



注、

もちろん、理想現実関係だったり、主語切り出し(AとA以外に相当する差異の取り出し)や主語述語関係(修飾関係)だったりの限定前後についての話も含むので、

この企て(負わされるに値する類の展開を可能にする抽象像に遡ってから、論理も歴史もその個々具体として捉え直す働きを含んでる)は、
プラトン以降の流れの軌道修正に相当するものと見なせます。


また、例えば、意味が文脈によって特定されたという事態も、
場の性質が、取り上げる差異(着目無視設定)の根拠、ひいては、場に置かれるものに対する価値付けの根拠
(ポジションや具体的有り様を規定する整合作用の基準)である、との理解で終わらせてしまうと実態主義なので、

内在の性質と外在の性質が合わさって現象となり、両性質が疑似化してない固有性だけから成ってるほど現象も確からしい、という枠組みで捉えるべきでしょうし、

対未来に限らず、責任概念を持ち出す際にも、その枠組みの下に、
つまり、行動原理(割り振られた立場からくるもの込み)が何らかの条件の下で具体化される(場から受ける整合作用も含む)という側面と、
そこでの行動原理や具体化条件に対する疑似化除去が最大限化されてるかどうかの側面がある、という理解の下に語るべきでしょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。