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3783文字、資本主義と共産主義の関係再考、および、対経済でも生じてる論点ズレの原因について、人間性を文系でも生かす次代の条件に触れつつ

2023-2-002

手段目的枠組みでは量的救済に留まる(量的救済が秩序を担うと、中世ヨーロッパで見られたような縛りが必要となる)だろうに、
他人を手段として扱う搾取(帰属の操作)を否定する内容をもって理想社会像とする。
(手段目的枠組みで語られる人格は、帰属を修正していった先と同等な実存とは整合的でないので、その枠組みにおける保障は帰属操作問題を矮小化してると言えて、
帰属の修正余地への鈍感さと悪意への鈍感さは重なるので、矮小化の分だけ倫理が機能してない、あるいは、経済の流れに水漏れが生じてる形。)

理想と現実の安易でないバランスポイントからのずれ具合でなく(そのポイントを繋いでいく歴史観でなく)、
理想社会像からの距離で肯定否定し、現実軽視な距離の詰め方も辞さない。


これらを可能にする直接的原因である為に、

内外境界意味する有限の与件性、より確からしいものが取って代わる運動性、これらから成る帰属修正余地なさへと
(特に、外在場の疑似でない固有性と整合させたポジションや具体的有り様へと、
加えて、それらのフィードバックを受けた内在有り様へと)持ってく働きとなるよう知性や倫理や美意識を導かないせいで、

また、理想現実関係が安易なまま歴史を紡いできた帰結としての個別性(何ら限定されてない状態の準備とそれが引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、
これらの上限化から成る抽象化具体化交互反復枠組みの不在)を検知し、修正や距離取りへと繋げる能力を育てないせいで、


代替不可能な内外事情にしか応じない実存(真善美に与える限定を最小にした場)の確保が、
他の確保に先立ってない有り様に、本人のそれ含め疑問を持たない状態のまま社会に送り出す既存の教育が、

対共産主義においてもネック(カントやヘーゲルに対する修正不足の弊害を再生産してる)と思われます。



一方、理想現実関係を、
同種の他との差異要素捨象を用いた先の上限化枠組みへとガリレオ以降落とし込めてる理系、
同種の他との共通要素捨象を用いた先の上限化枠組みへと未だに落とし込めてない文系、

これらの混合が、市場を実態主義(表層次元のいらぬ飛躍除去だけが根拠になってる状態)のまま数理的に洗練させる状況を可能にしてるのでしょうから、
資本主義は近代以降の文理有り様の顕著な例でないかと思います。


例えば、余裕の有無によって同じ主題でもその具体化が異なるとはいえ、先の実存確保が主題への臨み方として求められる、という点で平等を達成する事は可能であって、

市場(需給事情)を構成する個々事情における、先の実存確保を反映させたものの占める割合が高く(実態の内実が持つ疑似化程度が低く)、
かつ、場の性質を最も損なわない有り様という内実を、形式が持ち続けてるなら、
市場という場の上に立ち上がってる非対等性は受容に値する、

この方向に経済を修正する
(政治において管理者立場とプレーヤー立場が他方に要求すべきものについても構造は同じ)にあたって、

先の実存確保とバッティングする内在不問外在軽視(典型自由観)な内容をもって持ち出される根拠群
(欲望だけでなく自我もその内容をしてるのが近代なので、近代パラダイムそのものも含まれる)、
および、それらを修正できない先の教育が、やはりネックと思われます。


ところで、存在するのと引き換えの要素のみが取り出されてない状態で個別性を根拠にするのは、
存在に帰属しないものまで含んでる状態を、存在に帰属するかのように扱わせる帰属操作であるので、
神の名の下に為す事で人の罪を神に擦り付けるパターン(無限者と有限者の関係正常化としての信仰の観点では良くて形骸)の存在バージョンと言える為、

同種の他との共通要素捨象を内在性質に施したり、その捨象が十分に施された外在性質に合わせた具体化結果を内在性質にフィードバックする事(検証精度を最大化させた仮説検証に相当する処理)は、

言い換えると、内外境界意味する有限性により確からしいものが取って代わる運動性の意味での無限性を阻害なく取り込んだ状態と見なせる、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存からの、あるいは、抽象化具体化の精度を上限化させた交互反復な歴史から成る個別性からのズレの否定は、

存在と実存の関係悪化阻止でもあるわけですが、


表層次元のいらぬ飛躍除去で満足し内実次元のいらぬ飛躍除去を保存する為に、そこの悪化阻止の有無を区別しない
(存在との帰属関係の安易さがそのまま、過剰に割り引く実存として、理想との関係の安易さとなる)実態主義に、
方法的懐疑は他なりません。

(何ができて何ができないといった有限性形態が、より確からしいものが取って代わる運動性の帰結である時、
つまり、先の実存確保が果たされてる時、この有限性形態はその運動性にとって阻害を最小化させた受け皿であるとして、

その運動性へのいらぬ阻害がある状態で、これが自分にとっての上限であるとか、後は後でその時の上限に持っていけるとか、修正能力不全を隠ぺいする振る舞いを見せてるケースも、
存在や外界に受容に値しないものを負わせてる形であって、尊重は有ったところで形骸と言えるはずです。)


自我(内在的問題解決タイル)と文化(外在的問題解決スタイル)の関係、続けて、それらの統合として獲得された注力形式を具体化条件とする、無意識と意識(注力的問題解決)の間の交互反復を、
先の実存確保に落とし込む事により、個別性を受容に値するもの(帰属の修正余地のなさ)へと持ってく方向をもって、

存在に帰属しないものの受容強要(特殊性の過剰保障という意味で質を問わない上、
改善フィードバック阻害という意味で形骸ですらある尊重なり救済なりが、達成されてしまう受容の強要)、

個別性が根拠になってる局面(例えば、主観について、真善美との断絶が避けられないその不完全さ自体でなく、
断絶地点と有限下での上限である、理想現実の安易でないバランスポイントとのずれが否定される局面)に、
個別性捨象(単なる対等化処理込み)を確からしいものとして持ち込む不当合理(内実が疑似化してるかどうかと関係ない実態軽視)、

近代以降、この二択に縛られてる文系地平(対経済でも論点ズレの原因)を過去にしましょう。



注1

文末の二択は秩序的には、ふっかけ合い(引いてくれたら丸儲け)の末の均衡点な世界と、真善美を異端審問の根拠に矮小化してまで都合の悪さを黙らせる世界との二択を意味するでしょうから、

その二択地平は、言語秩序に関しても抽象化具体化の不十分さ解消が論点にならないせいで、
つまりは、主語の切り出しや主語述語関係(修飾関係込み)を、あるいは、意味合い変遷やニュアンス変遷を、本文で言う上限化枠組みに落とし込めないせいで、

思考が受容に値しないものを組み上げる形になってしまい、自他の思考、ひいては、自他の行動原理をその事態に陥っているいないの観点から評価する事もできないと想像されますし、
個体レベルや種レベルの行動原理へのフィードバックを持つ生命のその性質を、生かせてない事になると思われます。


注2

フェア志向(選抜精度と改善フィードバック精度を確保しにいく有り様)と同種の他との共通要素捨象の能力、

それらが機能してる時に立ち上がる現象だろう、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存(真善美との断絶踏まえた、有限性との付き合い方を含む)、
抽象化具体化の精度を上限化させた交互反復な歴史から成る個別性、

また、Bに置かれるとC(表面上Aと変わらなくても良い)になるものとしてAがある、という関係が、
Aの個別性についての仮説とBの個別性についての仮説の、現状の上限としての確からしさの下で語られる(もちろん、場に置かれるものが場の疑似でない固有性を介して繋がる)事への、
それぞれの立場からの責任のみがある世界(この意味で、非対等性自体が論点ではない秩序)、

これらは通用を行き渡らせるという内実を持つ文系事象の点で、より通用領域の広い像を選ぶという選択原理を満たしていて、
他の有り様の正当化試みは疑似問題でないかと期待します。


注3

フェア志向(場の疑似でない固有性と整合的な割り振りへの支持)でない、かつ、文系の知的上層である人達は、
文脈把握の精度上限からの乖離の分だけ自身の都合が過剰に反映されてる対象理解を、
あるいは、論点ズレによる疑似問題を、知的権威付しつつ外界に放流してる形ですから、

フェア志向(疑似化からの性質の救出含む、外在場の個別性尊重)と同種の他との共通要素捨象(存在するのと引き換えな個別性の抽出)能力を育成しない教育や、それと整合的な諸々は、
次元設定自在性という人間形式に振り回されてる(逆に、帰属に修正余地がないという受容に値するポイントへの移行を先立たせる事により、自在であるが故の操縦難易度の高さも制御可能になる)という意味で、
人間性を生かせないでいる事態から解放する力を対文系においては持たない、

との理解を押さえる事で、文系の知的権威(特に、内在不問外在軽視な自由観の前提化による非対等性自体の論点化、
例えば、絶対化相対化をはじめとする非対等性の増減操作への固執)に惑わされるのを防ぎつつ、注2で言う有り様を志向し、
また、それを文系においても人間性を生かす次代の条件としましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。