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教育が子どもからある方向性を奪ってきた結果が、過保護追認な哲学と通用性復元な哲学との間のパラダイム差異に相当するいらぬ限界を、知性や倫理が負ってる世界

2021-12-004

通用領域の広い気がする方を選んでるつもりで実際は狭い方を選んでる、という事態(限定通用状態への忌避が形骸化してる事態)に陥らない為に必要な事
(陥らないよう最大限取り組んでいるいないの差異部分が、認識者の負う責任部分だとして、その責任を果たしてると言える為に必要だろう事)は、

通用性を取りこぼさない、つまり、通用の行き渡ってる状態を表層形変転
(論理展開や、自身の無意識なり身体なりも対象の歴史展開をひっくるめた意味での時間性)の下で保存する能力の獲得であって、


その能力(内実の確からしさ確保)は、抽象化具体化の精度を最大化させる能力
(精度最大化の下での交互反復であれば、表面上の変化程度の大小がどうであれ、肯定されるという態度、
つまり、変化不変化の程度に大騒ぎして、精度の論点化を埋没させるような有り様とは無縁な態度も込み)、

もっと言うと、局面の固有性と捨象対象選定とを合致させる能力(既存の教育でも、理系的局面では合致してる形になる)から成ってると考えます。

(文系的局面での抽象化具体化の精度を最大化させられない段階で為される哲学は、
安易な理想現実関係が取りこぼしてる通用性を復元しきれないので、過保護の追認の域を出ないと思われます。)



例えば、情報や枠組みを得る時に、通用性が取りこぼされたものかどうかを気にしない
(当然、通用性復元としての哲学も機能してない)、質無視で量や成立に走る有り様も、

通用性を取りこぼしてる個性(歴史展開の帰結)かどうかを気にせずに多様性を謳う有り様
(理想現実関係からいらぬ飛躍を取り除く働きが機能してない個人や社会における着目無視の偏りを、そのまま肯定するのは過剰許容、との理解の不在の現れ)も、

その能力の欠如故と考えます。


(具体化精度に対する鈍感さを齎す枠組みから未だ解放されてない文系域では、そうした有り様のままでも、
つまり、場に置かれたものが場に持たされる偏りの過不足の有無と否定肯定反応とが整合してない状態でも、

実力認定には関係がなく、知的上層にもなれてしまう為に、そこの齟齬を抱えた肯定否定反応の産物が、

例えば、各場の代替不可能な固有性に即した、損得なり役回りなりの割り振りを支持するという意味でのフェア志向であるほど生じにくいだろう、自陣を棚に上げた批判による都合保障の正当化が、

内面世界に関するものであれ、自国社会や国際社会に関するものであれ、知的権威を帯びる事により、
内実の確からしさ確保の観点で評価する軸を持たない個人や社会に、押し付けられてきた。)


例えば、存在性を演出によってより強調的に発現させる場(芸術や競技)での、
演出フィルターに相当する自己が、代替可能な内在事情外在事情にも応じてきたのに、

存在性を最大限浮かび上がらせてる(いらぬ割り引きはない)つもり、
及び、その類を存在性に対するいらぬ割り引きがないものとして受け取るケースも同様と思います。


例えば、同種の他との差異要素の捨象次元の維持能力(その維持の下で抽象化具体化が展開されてると言える理系世界)に、特化させる既存の教育を変える必要はない、との立場と見なせるのに、

言い換えると、通用してないものを通用してる扱いする事態が、理系域以外であふれてる世界を保存してる身

(具体化精度の低いものへの敏感さを、認識者責任が果たせるルートを、子どもから奪う事で、
過保護追認な哲学と通用性復元な哲学との間にあるパラダイム差異に相当するいらぬ限界を、
知性や倫理が負ってる世界の維持に加担してる身)でありながら、


自他の知的や倫理的なポジション操作し、その弊害と引き換えに望むポジションの確保を展開してる

(自己なり、高地位低地位にあるものなりを、後者が利用対象でしかないなど、内実の確からしさ確保の観点から修正するつもりがない時点で、
形骸物をそう扱わない帰属操作であり、同種の他との共通要素の捨象次元の維持能力を欠いてる証拠)

不当獲得の自覚(糾弾される側との自覚)がない、糾弾される側とは見なさないケースも同様でしょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。