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3504文字、方法的懐疑以降の哲学者達へのある疑いについて、個人改善と社会改善の形骸化対策にも触れて

2023-9-002

自身の主観が疑似化してるかどうかについて不問な場合、内面世界で為された選抜の結果は、
それがどのようなものであれ、ドーピングによる金メダル的な帰属修正余地を持つもの
(場の疑似でない個別性が取り上げるよう要請してる差異を反映させてない割り振り)なので、

この場合の主観を根拠とする言動は、茶番をそうでないもの(帰属修正の余地がないもの)として受容するよう外界に、
場合によっては存在尊重にかこつけて、強いてるという、外界にとっては不当な負わされ事象と言えます。


したがって、自身の主観について疑似化不問な人が、例えば、何かを奪ってる他者を非難した場合、自分は不当な負わされを生み出して良いけれど他者はダメと言ってる形ですから、
奪う奪われる世界の外を目指してる言動とは言えず、良くて、非難に値する事象へのコミットが妥当な状況での次善の策でしかありません。



ここで、内外境界発生、つまり、差異そのものである為に、有無や肯定否定の差異、ひいては、存在や論理法則の前提である有限性に、
無限性が先立つ構造があるとしたらそれは、通用が行き渡ってる事態そのものとしての無限性が自己足るべく、
仮説改善に相当する展開性から成る無限性有限性関係の形で、有限性の登場を要請してる像であるとすると、

仮説改悪を齎す類(抽象化具体化の不十分なフィードバック)に対する受容拒否と無限者概念との関係について、べつに不整合扱いする必要はないわけです。

むしろ、不整合扱い、および、具体化精度を問わずに受容する体系(例えば、失敗を許容するにせよ、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存を生きてる結果の失敗ならば、許容は存在するのと引き換えなので形骸でない存在尊重であるけれど、

ここの形骸程度を無視するなど、救済の意味するところが、各々の課されてる条件上の上限であるという受容条件ラインを引いて、満たすよう働きかけるのでなく、
このラインを下げる話になってる体系)の採用推奨が、無限者を無限者でなくする試みへの参加誘導と見なせる事になるはずです。

(以上を認めるなら、理想ポジションにあるものを有限性故に割り引かざる得ないとしても、
割り引く程度を最小に抑えているいないについての責任、言い換えると、各々が課されてる条件における上限からの乖離についての責任はあるとの観点、
したがって、信仰をはじめとする何らかとの関係性改善試みの内、代替不可能な内外事情にしか応じない実存ではない状態で試みられてるそれに、
過剰な割り引き分の形骸化を見る観点から、逃げ回る必要はなくなると考えます。)



他者や社会や世界や神等への不満が、疑似化不問な主観の下で持たれてるなら、
先に見たように、負わされるに値しないものを負わされてる事態そのもの(抽象化具体化の不十分さ自体)を糾弾してる形にならない分、求めてるものがズレてると言えるでしょうし、

逆に、世界には否定に値するものなどない的な態度では、お腹が空いたとか傷が生じたとか(他にも、理解や実力は対象に関する抽象具体関係構造の像でしかなく、
この像における抽象化具体化のその時点での防げる類の不十分さはそのまま修正余地であり、これが対自己でも言えるなど)、修正余地の発生を避けられない生を否定した上での話になる

(置かれてる場に通用させ続けるという存在条件が前提である中、特に、どの問題解決を重視軽視するかの割り振りが局面に即してない、
という修正余地が常に生じ得る点を隠ぺいする雑さに対し、積極的に選んでる)気がしますから、


強引(通用が行き渡ってるという肯定条件に関する抽象化不足)な分だけ、緊急避難的事情でもない限り
(何らかに原理不在状態のまま取り組む事態も次善の策と見なすとして、理想現実関係を抽象化具体化の不十分さ解消の観点で見ると、余裕ない局面なのに次善の策を採らない現実軽視も、

チキンレースで即離脱的な理想軽視だけでなく、形式運用を場と整合させる意味での質確保の能力欠如が、
抽象化具体化交互反復としての歴史性における具体化精度に響いた結果、次善の策を余裕生じてなお居座らせてしまう類の理想軽視も、
不十分さの発生、つまりは、修正余地の発生です)、採用に妥当性は生じないように思われます。


また、自己研鑽に励んでます的有り様も、努力の結果の何らかの成功が、疑似化を除去してない主観の正当化に繋がるなら、
都合の押し付け(奪う奪われる世界での優位性確保)に努力を利用してるに過ぎないので、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存(個別性にとっての仮説改善作用による対主観での疑似化除去)の採用が先立ってない獲得喪失観に取り合っているいないで、

その有り様と距離を取る取らないを決めるべき(通用が行き渡っているいないによる確からしさ判定を、主観の内実確からしさに適用してない、
もっと言うと、通用領域の広狭と確からしさとの相関を第一原理にしてないとの意味で遡行が十分でない、

という方法的懐疑における修正余地に対する保存は、対主観での疑似化除去とバッティングする為、近代パラダイム下での努力に対しては距離を取るべき)かと思います。

(対無限者や対世界を的のズレた要求から解放する機会について、方法的懐疑に対する上の意味での修正余地を、
今に至るまで保存してきた哲学者達には、逸してきた責任が疑える。)



注1

代替不可能な内外事情にしか応じない実存を、実存に対する同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化の不十分さ解消
(存在するのと引き換えか否かについての差異を取り込む事で、存在尊重が形骸化するのを防ぐ試み)の結果と解するとして、

個別性が根拠になるならない(例えば、人権を持ち出すにあたって、個別性の内実確からしさ差異を無視すると帰属操作に繋がるか、
無視しても繋がらないかの局面差異)に合わせて、同種の他との共通要素捨象と差異要素捨象を使い分ける際の前提である、

局面と着目無視との合致への志向(これを欠きながら自他の内面世界の尊重を誇るのは、
林檎を数えられないのに蜜柑はできてるつもり的原理不在の、場の尊重についての原理バージョンを意味してしまう)が、この実存を生きるのに必要と言えます。


他方で、秩序の名の下に受け入れさせる整合の根拠が、置かれてる場の疑似でない性質の尊重(場への形骸でない尊重の下の平等)である状態を、
秩序に対する同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化の不十分さ解消
(修正余地のなさをもって受容に値する事とする方針の実践)の結果と解するなら、

例えば、中学生がルールなり現実なりへの妄信を止めたという時のその中身には、妄信から反動反発へと表層形反転しただけのケースも、
ルールなり現実なりが場の疑似でない性質を損なうように立ち上がってる点をもって受容を取り止める(損なってないなら受容する)抽象化具体化の不十分さ解消の一環であるケースもあるわけで


(当然、場の個別性を取り出すには、対象をその時点で可能なだけ同種の他との共通要素捨象にさらす必要がある為、
場の疑似でない性質を損なっているいないの判定結果に、取り合うだけの内実確からしさがあるかどうかは、

個別性が根拠になる局面で同種の他との共通要素捨象を機能させられてるかどうかに依存するのに、
論理を同種の他との差異要素捨象用に特化させるなど、既存教育はここを機能させられない方向に導く内容であり続けてるので、
この点をもっての既存教育やそれと整合的な権威、もちろん、既存の文系学問への妄信の取り止めは後者ケース)、

政治への影響力を持てる立場に至った人達の内、前者ケース含む妄信反動反発二択な反応が多数なのか、後者的反応が多数なのかによって、
政治が、形式運用の質確保レベルで機能してるかどうかが決まってしまうと言える事になるはずです。


妄信と反動反発の同時否定問題(空気を読む読まないなども含む、場に合わせる合わさないの表層形二択な地平からの脱却問題)に先立つ、
見て見ぬ振りと大騒ぎの同時否定問題(中学期に先立って取り組まれてるに越した事に課題)は、
局面と着目無視との合致の観点から自他を評価し、合致の採用の下で自他に接する、という方針の内面化をもってパスとなるように思われるので、

個人の改善と社会の改善は、形骸化への対策(疑似でない個別性に帰属してる獲得はいらぬ特化に伴う低通用化を回避できてるのに、
いらぬ特化への鈍感さの証拠でもある、帰属してないとの意味で小手先な問題解決能力の獲得に、
終始させない試み)の根本へと遡っていくと、同じ問題に突き当たると言えるように思います。

ご支援の程よろしくお願い致します。