無題0

道徳教育の中身次第では、メンタル面の教育もそこにまとめてしまえるのではないか、という話を感情と理性のあるべき関係性に絡めて(レスへの応答も付記)

2019-9-009'
メンタル面の教育における題材に関するスレへの投稿内容


メンタル面の教育も、
妥当不当の感覚(引き受けるべきもの、付き合う必要ないもの、といった判断のベース)への、
場の本質に即した割り振りの保障を内容とする正義観の基底化試み(自己絡みに限った視点からの開放)に、
まとめてしまいましょう。

感情に対し、
自分が自分である限り引き受けざるを得ないものだけから成ってると言えるまで、
己から代替可能な要素を削ぎ落としている(上の試みがその実質)いないを区分けせずに尊重するのは、
ドーピング選手をレースに参加させてる的不手際(尊重される側を同レベルに誘う環境)です。

また、感情的になってはいけないと戒めるのも、感情の質の問題の埋没に加え、
銀行強盗は、皆が真似すると金融システムが崩壊するので、他者に理性を強いる事で成り立つ、
局面の固有性に合わさない(差異性の捨象の)類の理性行使は理系的局面以外では行き過ぎた合理化、
そうした例から見て、上の正義(場の本質にしか応じさせない働き)の、
社会統治や理性概念への実質化が必要、という意味で無害ではありません。

なので、教育する側(親含む)にまず、
有限性(内外境界の存在)は与件、現象は内在の性質と外在の性質が合わさったもの、
内在と外在の関係構造からいらぬ飛躍を取り除き、現象の確からしさを高める事が知性や幸福追求の目的、
以上の理解の下に感情と理性、理想と現実、目的と手段の関係も捉えてもらいましょう。

感情と理性の関係に代表させて書くと、
感情を抽象物、局面を具体化条件、理性をその統合処理と見た、抽象化と具体化条件割り出しの最大限追究、
感情を内在場の産物、理性を外在場に合わせる処理と見た、問われる原理が同じもの扱い、
これら枠組みを踏まえた、場の本質にしか応じさせない、この実践具合の論点化や、
同種の他との差異要素の捨象と共通要素の捨象の内、後者が埋没してる世界標準知性、
その帰結でもある、内在不問外在軽視な自由観、個人観からくるバイアスの抑制も求めましょう。



2019-9-009''
009'に対するレスへの応答内容


感情と理性の関係は、
手を取り合うようなイメージ(より適した手の取り合い方が論点)のケースもあると思います。

一人で抱え込まないとか、ストレス対処とかを扱う場合は、
理想現実の関係構造に関してはあくまでもベースで、
目的手段、感情理性の関係構造へのいらぬ飛躍の除去が中心になるかと想像します。

場に対する解釈(理解や言葉、論理からいらぬ飛躍を除く上でも重要)については、
資質と環境の関係構造へのいらぬ飛躍の除去が問題になると思います。
井の中の蛙状態での性質把握より、具体形パターンを網羅した上での性質把握の方が確からしい、
この点は共通でも、情報や能力には個人差出るわけで、その差異による他者との優劣や損得を、
自分が自分である限り仕方ない、引き受けざるを得ないと言えるかどうかに響くからです。

つまり、資質や環境に対し代替不可能な要素のみ引き受ける在り方への着手が早い人の多寡で、
解釈の自由度への肯定具合は変わる上、情報や能力の獲得支援というその本質的側面の質に関わるのに、
現行教育はそこの着手への支援を怠ってる形です。

同種の他との差異要素の捨象と共通要素の捨象の、局面に合わせた使い分けを押さえた上で、
美味しい林檎も不味い林檎も(他の具体形も)林檎は林檎だ的捨象処理(理系的捨象)の得手不得手を、
捉えてるわけではない現行教育に、
固有性割り出しに必要な後者捨象とは無関係に資質が扱われる事態、
環境により必要に迫られてる能力や得られる情報の範囲への誤解や絶対化を来す子どもを育ててる状況を、
齎してる自覚を促す必要ありと思います。

ご支援の程よろしくお願い致します。