個人や社会、世界を健全化し、それらの基盤を盤石レベルにまで確からしくする試みの中身について
2020-6-006
上半期踏まえ、世界を憂う的スレへの投稿内容:
悩みにせよ、取り上げるだけの価値があるとの判断の結果ですから、
フェアに選抜をする能力が機能してなければ、
取り上げるべきでないものを取り上げてる事態(ドーピング選手の金メダル)を意味します。
逆に言うと、フェアを越えては助けないスタンスを対自己でも貫く事で、
自分の悩みや苦しみの過大過小を自分で抑えられるはずです。
(そこまで含めての自他救済は内と外の差を無くす事に解決見る旧来センスには期待できないと見切りつけ、
自己の非の自覚を皮切りに対他者をフェア化働き掛けとは逆方向に誘導する例も珍しくないなど、倫理が、
アンフェアな類の願いの実現強要という、唆す者される者関係込みで語られる時代を過去にしましょう。)
自社会や世界についても同じ事が言えるとすると、社会や世界の健全化にはまず、
過大過小を抑えた上で立ち上がってる問題のみの状態とすべく、
フェアの保障(問題あるなし感への実質の担保)を他に先立たせる必要があるはずです。
経済や政治での何気ない需給成立であれ、積み上がれば質不問の有害さが顕著にならざるを得ませんから、
本来は、成立に先立って需給事情(割り振りの規定原理に相当)のフェア化が求められるべきなわけです。
なので、フェアが先立ってない現状を作ってる原因を確認、相対化し乗り越えを図りましょう。
恐らく直接的原因は、同種の他との差異要素捨象アプローチの領域侵犯と共通要素捨象アプローチの埋没、
この傾向(近代性の帰結)の倫理や知性への反映(場の固有性把握の不全はフェアとの断絶)でしょう。
例えば、有限の所与性を踏まえ、引受推奨の不幸と拒絶推奨の不幸をフェアアンフェアで分け、
ある場に置かれたものにはその場の代替不可能な要素に即したポジションや具体的有り様が割り振られてる、
というフェア状態、加工実態に持ってく枠組み(場に置かれる前と後の関係正常化)でもって物事に当たる、
この方向に幸福追求権の内実を寄せるといった権利とスタンスの望ましい関係にとりそこの修正は必須です。
真逆である両捨象の結合を、その関係は意味してるからです。
ちなみにその関係は、追求のバッティング(有限性により不可避)をフェア基底の合意点で調停してる形が、
つまり、ご都合主義を排した整合的状態の達成が含まれてるので、状態を良くする働き掛けについての、
より確からしい原理(林檎を数えるから数を数えるへ的移行が理想)を持っての追求を齎してると言え、
また、通用領域の広狭と確からしさとの相関、より確からしいものが取って代わる運動性、
抽象と具体の行き来(歴史性)によって確からしさは向上や確保が果たされる、
これら前提が自身に沿う有限性(差異)を具体のポジションとして要請してる(自由の全体像)とすると、
それら前提の要請がそのまま反映されてる場(差異の着目無視)において場に即して立ち上がってる体系が、
偶々していた形(フェアアンフェアの差異への捨象方向の差異の統合形)と推測されます。
同様の構造は自由平等への理解についても言えると考えます。
アンフェア主体の都合が反映されてる場であるほどフェアな割り振りから遠ざかる、
この事情を踏まえる事で覚える確からしさ差異も捨象した、文脈次第で多様に切り出される抽象物としても、
大騒ぎも見て見ぬ振りもしない、状況上自然な反応を内面的にも局面的にも心掛けつつ、
内在と外在の性質を代替不可能な固有性として取り出せてるほど望ましいとする内容としても、
持ってるべきだろうに、自由平等についての理解(抽象と具体の関係構造)はまずそうなってないからです。
つまりは、権利や自由平等を持ち出したところで、
近代性(場と捨象との齟齬の主因)を脱しない限り、健全化は難しい(フェア化が内包されない)わけです。
実際、自由平等博愛が謳われた例を見ても、
近代に、博愛系はフェア化とは真逆まである問題の解決が可能かは疑わしいのであり、
内と外の差を無くす倫理による社会運営実現への中世的対処の弊害を、検討された内外分離で寸断しただけ、
かつ、権利とフェア化働き掛け以外とのセットでも正義や正当性を全然掲げられる状態が続いてる事態の、
極端な現れとしてアメリカで今起きてる混乱があり、同様の事は国際社会にも言えると捉えておきましょう。
また、確からしいものを選んでる(通用領域を判定できてる)つもりで失敗してる形が、
理解に対して言える以上、知性(対表層的理解)にも言えてしまいます(形骸権威状態)。
倫理も知性も、差異へのリアクションにどんな原理をあてがってるかが質に反映される点は同じと見なし、
その場その場の本質に即した着目無視をもって体系を組み上げてるかどうかで自他を評価してるか、
同種の他との共通要素の捨象が、局面の固有性把握において機能してるか(捨象の使い分け精度に関わる)、
これらを知性と倫理の、あるいは、知性教育と倫理教育の同根部分として問う様に、
(日本では場にその表層的要素込で合わせてる事態の肯定と場に合わさない反動との二択の脱却に後者必要)
個人や社会の基盤を、表層的要素に振り回されないレベルへと確からしくする働きを見ましょう。
ご支援の程よろしくお願い致します。