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3896文字、権利概念が奪う根拠になる状況を終わらせる為に押さえるべき理解について

2024-5-002

内在不問外在軽視な典型自由観のように、外在場に合わせる合わさないの二択発想(妄信と反動反発の事実上二択で、抽象度不足故に生じてるいらぬ対立)は、
場の性質に合わせるという表層形における、性質を取り違えているいないという内実差異が論点となる方向性を埋没させます。

(場の本質に合わせた結果として場を荒らすパターンも荒らさないパターンもあるという具合に、
内実の確からしさが上限である時の表層形を肯定する、言い換えると、内実が確からしいなら表層形は気にしない、という方向性も埋没させる為、
内実と無関係に表層形のみで肯定否定する表層形断罪世界を用意してるのと同じです。)


もちろん、偏り自体に着目する発想も、場の取り違えが最小な性質に合わせて整合させた秩序が持ってる偏りから見た、偏りの過不足を修正余地と見なす方向性を埋没させ
(局面の取り違えが最小な性質と着目無視との合致、ある場における価値付けを他の場に越境させない態度込みなこれを、
反応原理としてない人でも格差なり差別なりを語れる状況ができてしまい)ます。



理想を割り引く程度を最小にしつつ現実を成り立たせてるポイントが紡がれる歴史は、
限定を受けてない状態の準備、その状態にとって引き受けざる得ない限定条件の割り出し、これらから成ってる、
言い換えると、個別性の取り違えを最小化した具体化条件を外したり付す処理から成ってる為、

その種の具体化条件への志向を埋没させる上の二つの発想は個人や社会がそのような歴史
(修正余地がないというレベルで受容に値する歴史)となるのを阻害してる形です。


また、奪われるのを権利をもって防ぐという発想は、帰属修正への志向を表層形の望ましさに先立たせてるという内実を欠くと、
例えば、場の取り違えが最小な性質に合わせて場に置かれたものの具体的有り様やポジションを整合してると言える割り振りへの支持、

個別性の取り違えを最小化した内外事情にしか応じない実存と獲得喪失有り様との整合(この実存を自他有り様の受容条件とする方針)、
安定不安定が両極のスペクトラム上の点を局面に合わせて選ぶ局面次第性が内容の開放、これらを欠くと権利を根拠に奪う側面を抱えてしまう為、


内実を無視する抽象化(毒林檎も林檎は林檎だ的な内実差異の捨象)、個別性の取り違えを最小化した具体化条件をもって具体化されてるもの全体に通用してる要素の抽出である抽象化、
この両者の局面(個別性が根拠にならない場合となる場合)に合わせた使い分けを欠くパラダイム

(先の反応原理の不在が客観主観、あるいは、理系文系との付き合い方に響いてる枠組み)が前提である限り、
権利やその種の感覚は奪う根拠になり得るし、少なくとも帰属修正の上限化を阻害し続けると認めましょう。


帰属修正への志向を表層形の望ましさに先立たせてない生(フェアを越えた尊重はじめ、帰属操作と引き換えの達成に疑問を持たない生)においては事実上、
真善美は帰属操作の口実に成り下がり、知性倫理美意識は帰属操作の道具に成り下がる

(帰属修正の上限化がそれらの内容となっているいないの差異を論点としないままそれらを持ち出し、語りさえする、あるいは、そのような語りを真に受ける)為、
上のパラダイム下にある欧米文系が影響力を持つ限り、世界の有り様は帰属修正を上限にまで持っていけないと認めましょう。


(例えば、実存を内在性質と外在性質の統合物と見て、行動原理とその具体化条件の双方が、
個別性の取り違え最小化の産物と言える時はその実存を肯定し、言えない時はその実存を否定する肯定否定反応とズレてる肯定否定は、帰属修正が先立ってない証拠になりますし、

例えば、言語化は取りこぼしを伴うといった類の問題意識も、単なる包摂拒否のごり押しのような、抽象と具体との間の上下論の一種であれば、
抽象化具体化の精度が上限であるなら肯定するという方向性を潰してる為、内外性質の取り違え程度が論点になってない事態に等しく、同証拠になりますが、


個別性の取り違え最小化を、言い換えると、同種の他との共通要素捨象の能力を文系者の要件とはしてないパラダイムに留まってる文系者は、
真善美として扱われさえすれば実質を欠いていようが満足する態度を確からしさに対し採ってるのに等しく、
ドーピングや審判買収による金メダルのような帰属操作を修正余地のないものとして扱うよう強いてる状況を保持する力に、存在してるだけでなってしまってる形です。)



ところで、否定は通用が行き渡ってないとの判断の現れであり、論理的である事が確からしさを意味するのは、通用が行き渡ってる状態を保存しつつの表層形変転であるからです。
また、自我は内在的問題解決スタイルに過ぎず、文化は外在的問題解決スタイルに過ぎません。

(意識は生を問題解決の集積として見た時の注力的問題解決なので、限定精度次第で、局面に合わせる能力を理性と解せば理性の精度次第で、
限定結果のフィードバックが、無意識の有り様を仮説とした時の仮説改善にも仮説改悪にもなり得ます。)

競走における一位は他の参加者に通用した事実を意味し、ある差異が着目されてる場での具体的有り様やポジションの割り振りである点では、
スタイルを場の性質とする自我や文化と同じですし、着目してる差異が取り出されるように運営されてる限りにおいて競走の帰結は妥当です。


問題は、通用してる領域の広狭と確からしさとの相関を根拠に、ある観点の下で対象を位置付ける、
この時の観点設定が同相関を根拠に評価されてる(対象理解に限界がある、偏りを持った形でしか世界と関われない、

これらは有限者性に起因していて、その有限性が修正余地ないというレベルで受容に値するものかどうか、
言い換えると、不完全性の受容、自覚ないもの込みなこれが安易な場合の帰結を自他に押し付けてないかどうかに論点があり、
修正余地なさ持たせる対有限性を、存在の観点から具体化したものが先の実存に関する方針であるとした時の、


認識の観点から具体化したものが達成されてる)とは言えないケースであって、
個別性の取り違え具合とは無関係に自我や文化を根拠にしたり、先の使い分けを欠くせいで理系的論理を個別性が根拠になる局面に持ち込んだり

(理解や実力について対象が文系事象の場合、対象に関する抽象具体関係構造の像を、
現実の複雑さに通用させにいく確からしさ向上を上限化できない状態)は、近代パラダイムを具体化条件としてるそのケースと見なせます。



例えば、国家運営にも類推可能な話として、経営者が経営対象の存続に責任を持ってるなら、
いらぬ特化の回避についての知見や実践を、少なくとも、存続に直接的に影響する在庫管理や分散投資のような基礎的なものは押さえてるはずです。
他方で、その人が先の反応原理や獲得喪失方針を学校教育期に内面化しないまま実社会に送り出されてる場合、ここには、


過大反応(大騒ぎの類)と過小反応(見て見ぬ振りの類)をいらぬ囚われとして扱う態度が、
条件変化への合わせ過ぎも合わさな過ぎも同時否定する有り様を包含してる事から分かるように
(この場合、冒頭の話とは逆に、保守的妄信系が外在場に合わさない立ち位置に相当してますが、検証から逃げ回ってるに過ぎない絶対主義的態度は、

鎖国的状態を破綻させる外部からの力が生じ得る以上、大した理由なく死角をつくってる低通用状態を意味します)、
林檎を数えられないのに蜜柑はできてるつもり的な原理不在に近い構造があります。


教育が既存パラダイムに留まり、小学生でも可能なその内面化が未達成である状態を放置し、いらぬ特化の回避について原理レベルで持つのを阻害してる限り、
国家運営に対するその社会における肯定否定は実質を欠いていて、この空隙に冒頭の二つの発想が侵入する事態を齎してるように思われます。



不完全性の受容が安易な場合の帰結(帰属してないものまで帰属させてる不完全性)を自他に押し付けてないと言えるには、
より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害を最小化してる必要がある為、

自身の有限性にこの運動性を展開してると言える状態から、つまりは、代替不可能な内外事情にしか応じない実存から乖離してる部分に付き合わない態度を意味する、
個別性の取り違えを最小化した内外事情にしか応じない実存を自他有り様の受容条件とする方針を、欠いてる人は押し付けてると見なせます。

(実存で言えば、行動原理とその具体化条件のような、現実を内在性質と外在性質に分けた時の両性質の取り違え最小化を求めない対現実は、
発生してる不幸の内の修正可能な部分まで受容するよう強いてるも、つまりは、自他への防げる不幸の泣き寝入り強要も同然です。

仮にこの強要を神の名の下に展開してるなら、人に帰属してる責任を神的存在に擦り付けてる形であって、
理想を過剰に割り引く現実、という内容である以上、信仰を神的存在との関係性改善として解せば、信仰の形骸化を意味しますし、
この構造は何らかの理念の名の下である場合にも、同様に言えると考えます。)


既存教育における、個別性の取り違えを最小化した内外事情にしか応じない実存と獲得喪失有り様との整合を無視してる側面にも付き合ってる人は、
その方針を欠いてますし、帰属修正への志向を表層形の望ましさに先立たせてるという内実欠いた知性倫理美意識にとっての真善美(帰属操作を含んだ代物)であろうと、
真善美として扱われさえすればそれで良いとの態度を、自他に疑似的不完全性を押し付けてまで採ってるのに等しいです。

ご支援の程よろしくお願い致します。