見出し画像

3417文字、家庭環境をはじめ、教育環境なり労働環境なり常に放り込まれてる中で、環境へのいらぬ特化をどう防ぐかについて、正義概念の救出にも触れつつ

2023-11-003

より確からしいものが取って代わる運動性は、
有限性(内外境界発生)の次元では、少なくともどちらかは代替不可能的でない内外性質から成る現象を、どちらも代替不可能的な内外性質から成る現象へと移行させる

(この対現象を、対存在も対認識も当然込みなそれを採用してる場合、後者的な内外統合でありさえすれば良いので、
つまり、現象の内実が、前者的であればAという表層形をしていようといまいと修正余地あり、後者的であればAという表層形をしていようといまいと修正余地なしとして扱うので、

内実の確からしさ差異を踏まえてない評価には取り合わない、そもそも、その種の評価が持ってる確からしさは、
より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害を最小にしてない為に上限ではない点も押さえつつ)、

という内容の帰属修正の働きとなり
(後者的現象が、後者的現象の一種と見なせる代替不可能な内外事情にしか応じない実存から成る個別性によって与えられた、意味付けなどのポジションも後者的現象)、


帰属操作が混入してる知性倫理美意識
(理解や実力を、対象に関して持ってる抽象具体関係構造の像として解した時の、修正余地のある抽象化具体化の下での、したがって、上限化されてない理解や実力としてのその像を含む、
前者的現象を許してる知性倫理美意識)には、より確からしい働きの有り様がある

(この理解、および、欧米文系も当然含む文系空間では下で言う事情により、修正余地のある抽象化具体化が標準であるとの理解を欠くと、
形骸な知性倫理美意識に丸め込まれてしまう)、そう言えると考えます。



例えば、内在不問外在軽視な通念的自由(特に、現象には内在性質の反映も外在性質に反映もあるとの認識の欠如)も、
得る資格を開くだけの平等(表層形の反転に解決を見る発想の、被限定な秩序に対する発動)も、上の運動性を阻害しない内容へと修正すべき対象として扱う事で、

共産主義的な対資本主義への、帰属修正不全A(数理的洗練による内実不問の肥大化)から帰属修正不全B(理念による内実不問の肥大化)に振り替えるだけの疑似解決扱い、
および、需給事情(割り振り原理としての場の性質)を構成する個々事情についての上の移行を、
需給事情に即した形式(数理的洗練込み)に先立たせる方向性への、対資本主義での本筋扱いも可能になるはずです。



個別性が同種の他との共通要素捨象に十分さらされているいない(存在するのと引き換えな要素、雨が降ろうが槍が降ろうが引き受けざるを得ないレベルのそれを割り出せているいない、
ひいては、存在に帰属してないものも存在を理由に正当化する帰属操作の有無)という観点の不在が、

対内実で帰属修正が働かない(例えば、内実の確からしさ差異を見ない為に実存概念が、仕方なさ偽装による泣き寝入り強要として用いられてるなど、
先の正当化への対策を組み込んでない存在論がまかり通る)という事態を文系空間に齎し続けてるわけで、


局面と着目無視との合致を、個別性が根拠になる局面では同種の他との共通要素捨象として、
個別性が根拠にならない局面では同種の他との差異要素捨象として展開する文理関係
(通用してる領域の広狭と確からしさとの相関、何の差異に関してその相関を持ち出すかという観点設定、これらを内外性質とした冒頭の内容の帰属修正の結果)に拡張し、

加えて、前者捨象(言わば、点から線への次元飛躍を担うものの文系版)によって可能になる代替不可能な内外事情にしか応じない実存と獲得喪失とを整合させる過剰獲得拒否を、
様々である家庭環境はじめ、教育環境なり労働環境なり常に放り込まれてる中で、
いらぬ特化への敏感さを保持しつつ仕方なさ偽装(泣き寝入り強要)に応じない、与さない有り様の中身とする事で、

帰属修正とバッティングしてる部分にも合わせてしまう対環境を終わらせにいきましょう。



また、局面と着目無視との合致による反応の過不足の縮減を囚われていなさとし、これを自己と対他者に展開するとして、
そのような対自己との遠近でもって主体を評価しつつ、同時に、主体がそのような対他者をもって扱われる事を望む自由平等関係

(囚われによる歪みを評価し、歪み部分には付き合わない対他者は、例えば、一桁の歳の子どもが親に対して展開すると、
家庭環境の歪みの全面受容を避ける対環境になるはず)は、文理関係への拡張後においても同じ構造が言えて、

代替不可能な内外事情にしか応じない主体像(個人における内在的問題解決スタイルである自我と外在的問題解決スタイルである文化との関係も包含)との遠近をもって主体を評価しつつ、
同時に、主体の受ける具体的扱いが置かれてる場の疑似でない個別性に即してる事(場の本質の下の平等)を望む


(場の疑似化した個別性が割り振り原理となってるポジションや具体的有り様には修正余地があり、
市場や民主制のような個々事情の集積で場の性質を構成する場合、場の性質に反映される個々事情の内、その主体像の産物と言えるものの割合が低いほど修正余地がある、

個別性を仮説として見た時の仮説改善を、疑似化からの解放とする立場にとって、
包摂自体の忌避も、無条件の包摂受容も、検証精度の低い実験結果のフィードバックよろしく、仮説改善に必要なだけの具体化精度の放棄、
もっと言うと、包摂されるされないの問題意識は解放を阻害する疑似問題でしかない)

という内容(もちろん、利他利己で言えば、これらを個々具体とする抽象次元での話)だろうそれは、
個別性の疑似化問題へのケアが組み込まれてる分だけ、拡張前よりも厳密な自由平等関係であるように思われます。


いずれにせよ、これら自由平等関係を内容にしてない秩序の達成(左派文脈であれ右派文脈であれ)は、フェアを越えた解決と見なし、
フェアを越えた解決の否定を正義に先立たせる方針をもって、正義概念に対する妄信と反動反発の同時否定としましょう

(呼吸をはじめとする問題解決の次元飛躍である生に先立たせる、という形に拡張が可能ではあるけれど、
理想と現実のどちらについても軽視せず、不問にもしない内容を正義概念に持たせる試み、

つまり、正義概念に対する、冒頭の内容の帰属修正を持ち込む内容での救出は、
理想主義と現実主義の対立構図の次元に矮小化された政治理論に付き合わされない為に、必要であるはずです)。



同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化が、不十分であるという内容であれば受容に値せず(修正余地があり)、不十分でないという内容であれば受容に値する(修正余地はない)、

ここの区別だけが問題(不当合理なり過剰特殊なりによる、内実の確からしさ差異の無化が問題)で、
後者は限定理由の確からしさをもって限定作用に伴う通用性低減を補填し、通用が行き渡ってる状態(受容条件)を保全する事に成功してる、


この観点(これを短期とした時の長期は、上の保全の下での表層形変転であるかどうかが論理や歴史の論点になるわけなので、
不十分でない抽象化具体化の交互反復でありさえすれば、表面上変化してるように見えようが、変化してないように見えようがどちらでも良いし、
表面上の変化不変化に拘ると、より確からしいものが取って代わる運動性とそれによって常に上限である不変性が確保されない、

という内容であるとして、そこには当然、革新と保守の二択地平やその存在論版に代表される、
変化不変化に対し表層形反転に解決を見る発想との決別も内包されてる)をもって、


プラトンやアリストテレスの理想現実関係(ひいては、主語述語関係)に対する立場を、否定しないままで来てる地盤の上に組み上がってるものであるのなら
(上の観点をもって主語述語関係に対する彼らの立場を否定する場合、主語を切り出してきて、主語から述語を切り出す処理、当然、文脈や自我文化関係が具体化条件となるそれを、

問題状態という抽象物から内外事情を具体化条件に具体的問題を切り出し、同条件の下でそれに反応する生が既にあって、
この生に冒頭の内容の帰属修正を持ち込めるだけ、という構造に重ねた上での否定も可能であるように思います)、

欧米文系の産物は、理解や実力が上限化されてない段階のものとして扱うべきでしょうし、
そうせずに肯定してる場合、例えば、歪んだ企業風土をごり押ししてくる実態主義と、規模の違いこそあれ変わらないように思われます。

ご支援の程よろしくお願い致します。