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仮に国なり何なりが衰退してる(老いに至っては避けられない)として、それをどう捉えるかについて

2022-10-004

良い方向に変化するのであれ悪い方向に変化するのであれ不変化であれ、それら自体は表層形なので、形骸なら受容に値しない(選ぶに値する、より確からしいものがある)、

逆に言うと、内実が確からしいならば、その反映である表層形は受容に値する
(受容に値すると言える条件が確からしい程、加害開き直りや被害者偽装をあぶり出す精度も上がる、

つまり、仕方なさ等を含めた、正しさを主張する前に、確からしくしたその条件像に自他の判断なり振る舞いなりを照らす必要があって、最も確からしい条件は帰属の修正余地のなさであり、
内外境界意味する有限の与件性、より確からしいものが取って代わる運動性、これらに帰属がある現象はその条件を満たしてる)、

そう解して、表層形への過剰反応、および、内実(帰属関係)を確からしくする方向性の埋没を、抑えにいくべきでないかと思います。


恐らく、内在事情外在事情の代替不可能な要素にのみ応じてきた結果だけから成っていれば、
形骸な多様性ではない(内実の確からしさ差異が捨象され、同等扱いを引き起こす、リベラリズム化が避けられてる)、この理解と内容的に同じものとして、

抽象化具体化の交互反復(歴史展開)における抽象化具体化の精度が最大化されていれば
(文系的局面での捨象が同種の他との共通要素の捨象になっていれば)、形骸な変化不変化ではない、これが言えると考えます。


問題は、文系的局面(個別性への帰属の確からしさが根拠になる局面)で、同種の他との共通要素の捨象に十分にはさらされてないものを、根拠として不十分なもの扱いする教育が不在である為に、

具体化精度と関係のない肯定否定でもって、例えば、社会がつくられてしまう
(形式も含めて、場の上に置かれてるものの状態への肯定否定が、その場の疑似でない固有性と整合的かどうかと関係ない、
もちろん、整合させる方向への修正もないので、不当合理から過剰特殊への振り替え強いをはじめ、否定行為が、事態を悪化させかねない実力不足者介入の形になる)点です。


局面と着目無視との合致を内容とする自由平等(認識的な自由平等)、
つまり、反応の対象を場の代替不可能な性質(その場で問われてる事としての価値)と整合させ、過大過小反応を抑える具体化精度保障な対自己や対他者を、小学期から求めてく事で、

疑似化が要請されてる局面もあるに過ぎないのに、その局面以外でも疑似化(例えば、内在事情外在事情の代替不可能な要素以外にも応じてきた結果の個性)を許してる有り様、
表層形だけが問題になってる(内実の確からしさ差異の無視が要請されてる)局面もあるに過ぎないのに、その局面以外でもそれだけを問題にする有り様(差別なり、変化への過剰肯定過剰否定なりに繋がる)、

こうしたいらぬ飛躍への修正対象化を可能にし、


場に合わせる合わさないの二択(特に、不当合理と過剰特殊の二択は近代以降の文系パラダイム)は有っても、場の疑似でない固有性に合わせる選択肢は無い
(したがって、その二択も、当該場と他の場における、疑似化してる割り振り原理同士の主導権争いの話でしかなくなる、
つまり、いらぬ飛躍をそうでないかのように受容するのを防ぐ働きを、知性が発揮してない)、

この意味で具体化精度と関係のない肯定否定をもって社会等をつくってきたこれまでの時代を、終わらせましょう

(終わらせられるだけの具体化精度問題への敏感さがあれば、何かについての歴史展開から形骸な変化不変化を取り出せる理解力、
ひいては、テキストが持つ特定時空性への過剰肯定過剰否定、対テキストにおける相対主義絶対主義を含むそれらに陥らない理解力も、備わってる)。



注、
場の疑似でない固有性に即した割り振りという内容になってないなら、市場や民主制も場への過剰肯定であって、相対主義(実態主義)と思います。

加工不可避な認識処理も、内在事情外在事情のその時点で可能なだけ代替不可能化させた要素にのみ応じてきた結果の固有性の下での加工(認識場で生じてる現象)であれば
(できなさを、帰属の修正余地のなさとしてのそれ、対他者込みで受容条件を満たしてるそれにまで持っていってれば)、

相対主義(形骸な多様性)ではなく、単なる成立としての形骸な認識を免れてる
(主語の切り出しや主語からの切り出しも、同じ問題構造)と考えます。

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