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人類は何をやり直すべきかについて(搾取する人される人を生む近代的理解力を過去にするよう、教育に、ひいては社会の管理者ポジションに要求しよう)

2022-8-002

局面と着目無視を合致させる事で生じる捨象に、含まれてるはずのものが反応の方に含まれてしまっていたら、知性や倫理が形骸化してる事例として扱う。
理系的局面では同種の他との差異要素の捨象を用いて、文系的局面では同種の他との共通要素の捨象を用いて抽象化具体化を展開し、どちらの局面であるかの把握には後者捨象を用いる。

未だ支配的な近代的理解力の弊害(文系域において後者捨象が働かない結果の、条件の下での上限から見た過大過小な要求、
特に、仮説や都合に対するそれが修正されないまま権威を帯びてしまう事態)への対策として、人類はここからやり直すべきでないかと思います。



特に、場に合わせる合わさないの表層形二択を、近代的思考力(距離を取るだけで満足する量志向)によって強化されてる思考様式と位置づけ、過去の遺物にしましょう。

例えば、内在不問外在軽視な有り様(外在場による影響の否認状態)に自由や尊重を覚える有り様を過去の遺物とし、
場の性質が疑似化してる事態は、他の場の性質による越境を受けてるも同然であるし、

同種の他との共通要素の捨象に十分さらした性質へと、場の性質を持っていった上で、
場の性質の保障を内容とする整合をもって、場の上に置かれたものの有り様なりポジションなりが規定されてる時、
そうした規定は帰属修正の余地がない(有限の与件性と、より確からしいものが取って代わる運動性に、帰属がある)ので、場に置かれてるものにとって引き受けるに値する、


この話が内在場にも外在場にも言えるだけであり、局面と着目無視を合致させてるなら、
両場においてそのような規定でない事態に対して、不自由や非尊重を覚える、
つまり、内在事情が外在の性質の下で問題解決され続けてる中で、痛みが問題発生の情報を伝えてるように、自己に帰属してるはずのものが失われてるという問題発生の情報が伝えられてると受け取るし、

両場においてそのような規定である事を望んでる代替不可能な内外事情にしか応じない主体像、
より確からしいものが取って代わる運動性をもって自身を規定してる形である為、その運動性を阻害しない受け皿(具体化条件)としての生なり存在なりを意味するそれに自由や尊重を覚える


(これを阻害する有害な、しかし、権利観を通して社会を組み上げてもいる有り様を、
例えば、フェアを越えない方針に対し、文系的なそこの合致に相当すると見なして、
方針の受容を教育目的に組み入れるなどをもって、過去の遺物にする必要がある)と解しましょう。


また、より確からしいものが取って代わる運動性にしか頼ってない枠組みに知性を落とし込んでない
(例えば、認識が頼ってる通用領域の広狭と確からしさとの相関を、デカルトが徹底させておきながら始点にしなかった事もあって、観点設定に対しては事実上見てない、

つまり、認識場の性質の疑似化を許してるとか、認識主体の固有性が先の主体像の帰結でなくても気にしないなど、内実に確からしさ差異を見ない近代性を背景にしてる思考力である)のに、
文系域において知的権威を、したがって、形骸な権威を振りかざしてるなど、

その運動性を阻害してる生は、仮説の取り扱いに対して誠実でない(反省も形骸的な)生でもあり、
その不誠実さ(仮説とその帰結との間の帰属関係の修正余地、仮説自体の修正余地、これらの放置を齎す具体化抽象化の精度不足)には、

責任概念(賭け込み)についてどういう見解を持ってようと説得力がないという事態も含まれてます。
(恐らく、世界を場と見た時のお金の所在の歪さ、正確には、場の疑似でない固有性に即した偏りからのズレの問題の、責任なり権限なりのバージョンがあると思われます。)


何かに対して誠実なつもりとか、何かに対して理不尽さを覚えるとかも、不当な扱いを安易に生み出す自身の産物であるならば中身はないわけで、

尊重に関する話は実質を持たせたければ、負わされるに値しないものを生み出してしまう事についての安易さ除去、
さらには、理想と現実の関係に対する安易さ除去の問題、言い換えると、同種の他との共通要素の捨象を用いた抽象化具体化の不足の抑制の問題に遡る必要があり、

理想に対する割り引きを条件上の最小にする上で言う主体像への志向は、何をどういう形で尊重するかの話に先立ってると解しましょう。



ところで、上の話における場の整合として選択(選択肢の持ち方込み)も、罰的扱いもあるに過ぎない、
つまり、場が持ってる偏りが場に置かれてるものにとって引き受けるに値するものかどうか

(場の有り様が、それがそれである限り持たざるを得ない要素のみから成ってるレベルで、
場の存在に、ひいては、内外境界意味する有限の与件性に即してるかどうか)の問題があるだけなので、

選択してるつもりでしてないのでないか(ひいては、行為に対する責任などないのでないか)といった疑念は疑似問題


(局面と着目無視との合致についての、理想と現実の関係における安易さ除去しか、
したがって、理想に対する割り引きを、有限の与件性はじめ、課されてる条件上の最小にする有り様として、代替不可能な内外事情にだけ応じる主体像をしか、
認識主体には求める事ができず、その主体像にとって外在場に合わせる合わさないは疑似問題に過ぎない)と言えます。

しかし、この例をはじめ、知的上層ですら文系(同種の個々に帰属がある局面)では近代的思考力の弊害故に疑似問題を除去できてこなかったわけで、
知的上層でない人達と、表層はAだが内実は事実上Aでなく搾取ですらある事態との関係も当然、厳しいものと想像されるわけです。


社会の管理者ポジション(分業上そのポジションを担ってるだけ)による場の管理
(場の疑似でない固有性に即した割り振りの保障)が不十分であるから、この現状が放置されてきたのだと捉え、
彼らは冒頭の二つを教育に組み込むよう要求されて然るべきだと解しましょう。



ちなみに、有限の与件性を踏まえてない安易な倫理(内在不問外在軽視なよくある自由観含む)は、
どういう有限性なら許容するか、されるべきかの条件問題を内包してない、という意味での疑似問題
(事実上の理想切り捨てや現実切り捨てな内容)に振り回されてる生(不自由な生)の原因になるでしょうし、

有限の与件性に帰属を持っていけない生でもあるので、そこの条件選定を試みても、
帰属の修正余地を潰せない分が、ご都合主義的側面(過大過小な要求)に相当してしまう
(倫理や知性を持ち出しても説得力的には形骸)と推測されます。




以下、投稿用の冒頭(続きは上の前半部分)

信仰を無限者と有限者の関係改善と捉えれば、ある種の自由と重なってる(ある種の自由は形骸でない信仰と事実上同じもの)と個人的には思います。

形骸な信仰(被搾取の余地込み)も信仰自体の否定も抑えるべく、無限性をより確からしいものが取って代わる運動性と解しつつ、
内在不問外在軽視な内容(外在場による影響の否認状態が、距離を取るだけで満足する近代的思考力によって強化されてる内容)である通念的自由観を放棄して、以下の理解に差し替えましょう。

(社会レベルでは、局面と着目無視の合致の文系版を、フェアを越えない方針と解して、
自他の救済の肥大化を抑えるその方針の受容を教育目標に加えるよう、教育者に協力を求めましょう。)

ご支援の程よろしくお願い致します。