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1666文字、人生を通じて起きるある事象の上限化を阻害してる既存の教育を踏まえ、押さえる必要があるだろう世界観について(+投稿用666文字)

2023-3-001

例えば、有限能力故の真善美との断絶を認めるとして、そこに見られる解決しない状態が永遠に続くという側面に対し、
フェアを越えては自他を助けなくて良い(解決しなくて良い)との方針をもって、過大評価(疑似問題の発生)を抑えにいく、という処理は、

フェア志向でないのに自己の感情なり主張なりの選抜結果を真に受けたり受けさせようとする有り様に対する、フェア志向をもって選抜精度を上げにいく修正、という内容を持っていますが、


フェアを場の疑似でない固有性に即した割り振りへの支持、及び、その反映である着目無視と解せば、
外在場の割り振りに確からしさを求める(疑似化からの性質救出を含む、外在場尊重である為、
内在不問外在軽視な典型自由観とも、期待はじめ場の本質と整合しない有り様規定を受容する生とも、バッティングする)試みであるフェア志向は、

内外境界意味する有限の与件性とより確からしいものが取って代わる運動性、
これらから構成される帰属修正余地なさを持った現象へと、ひいては、受容に値する状態へと、救済等の理念すらも、持ってく働きとも見なせます。


また、代替不可能な内外事情にしか応じない実存、あるいは、同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化の精度を上限化させた交互反復な歴史から成る個別性も、
内外境界意味する有限性に、より確からしいものが取って代わる運動性を阻害なく取り込んだ状態と見なせるので、

理想を割り引く現実という関係において、それらは理想(真善美込み)にとって受容に値する割り引きと見なせます。


つまり、真善美との断絶自体が問題なのではなく、対真善美の上限である先の実存とのズレが問題である、
能力なり情報なり可能性の獲得自体や何かができない事自体が問題なのではなく、その人の有限性形態が先の実存(あるいは、その拡張である、抽象化具体化交互反復な歴史)の現れであるかどうかが問題である、

という点で、真理と認識との間の断絶から、下で言う不当合理的発想(局面個別性と捨象対象との間の不一致への無理解)故か対真善美の上限化へと向かわなかったカントに対する補完と、
既存の教育観や対人観の修正とは同じ問題系であり、既存の教育が対真善美の上限化からの乖離を再生産し続けてる(知性や倫理や美意識の働きにいらぬ割り引きを与えてる)形と思われます。


そして、先の実存と獲得なりできる事できない事有り様なりとの整合を問題視させない、
つまりは、抽象化具体化の精度を上限化させた交互反復な歴史から成る個別性かどうかを対象理解に含めない既存の教育は、

通用が行き渡ってる状態を保存しつつ(いらぬ特化を抑えつつ)の表層形変転でない歴史を、ひいては、文系的局面(個別性が根拠になる局面)における同論理を修正する能力だけでなく、
仮説への改善フィードバック(具体化精度確保が必須)の上限化能力を対文系では育成してない事をも意味する

(先の意味でのフェア志向の育成不在は、対救済はじめ、理念が受容に値しない内容をもって展開されるのを防げない社会を意味する為、
内在不問外在軽視の前提化による非対等性自体の論点化、例えば、非対等性の増減操作への固執が、
自由概念や平等概念を、あるいは、対絶対化や対相対化を、日常生活の現場から政治理論に至るまで矮小化してる責任も、既存教育にある)ので、


誰もが赤ちゃんとしての井の中の蛙状態からスタートし、全体枠を広げる情報流入に伴う、自身の世界観に対する検証や修正を受ける人生において、
真理との断絶が自身の世界観にも獲得情報にも言える中で、不完全な全体像からくるずれを持つ判断を、自他にとって受容に値する状態へと持ってく働きの邪魔をしてる形であって、

我々は次代に向けて、
既存の教育に整合的な何らかとバッティングしようとも先の実存を自他に求める事が、
受容に値しない判断の集積な世界に置かれ、受容に値しないものを負わされ続けてる、という意味での悪環境からの影響をできるだけ抑える事に繋がる、
との世界観を押さえる必要があるのでないかと思います。




以下、投稿用に加筆した2023-2-002の内容

ちなみに、その悪環境に関する以下の理解も押さえるべきと考えます。

自我(内在的問題解決タイル)と文化(外在的問題解決スタイル)の関係、続けて、それらの統合として獲得された注力形式を介した無意識と意識(注力的問題解決)の関係を、
先の実存や交互反復に落とし込む事の要求によって過去にできる、

自我や欲望の実態主義(内実次元のいらぬ飛躍除去具合と関係なく、表層次元のいらぬ飛躍除去を根拠に受容を迫るこれは、方法的懐疑の時点で登場してる)と、
個別性が根拠になってる局面に個別性捨象(同種の他との差異要素捨象)を確からしいものとして持ち込む不当合理(内実が疑似化してるかどうかと関係ない実態軽視)との二択に、

縛られてる近代以降の文系地平は、市場に対する内実不問な重視軽視のように、
ふっかけ合い(引いてくれたら丸儲け)の末の均衡点な世界と、真善美を異端審問の根拠に矮小化してまで都合の悪さを黙らせる世界とを両極に持つ秩序を齎すので、

その二択を過去にできてない領域では、言語秩序に関しても、つまりは、主語の切り出しや主語述語関係(修飾関係込み)であれ、意味合い変遷やニュアンス変遷であれ、
同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化の不十分さ解消が求められる事はなく、

思考が受容に値しないものを組み上げる形になってしまい、自他の思考、ひいては、自他の行動原理をその事態に陥っているいないの観点から評価する事もできない
(個体レベルや種レベルの行動原理へのフィードバックを持つ生命のその性質を生かせない)。

ご支援の程よろしくお願い致します。