無題0

倫理(知性より形骸化の修正が困難な印象)を直接経由せずとも、知性の評価基準を変更する事で、世界の健全化は可能ではないか

2019-12-001
差異性への開放を言う哲学者に関するスレへの投稿内容


不当な扱いが生じない形での損得や役回りの引き受け、割り振りが主体の行動原理になってる、
この意味での世界統一がない、求めてもないのは、
知性の機能不全(功罪の帰属操作の有無に非厳格な歴史解釈等)故でしょう。
事実上内実不問なままの差異性への開放は、不当な扱いの発生に対しギャンブル的で無責任です。

他者に対して持つべきは寛容の類でなく、
場の本質(問われるべき事)を損なわないように形式や帰結を組み上げる能力の、
機能具合という観点と思います。
能動にも受動にもその観点持つ事で、
過失がなくとも(有限性が代替不可能化されてても)罰的扱いを受け得る(最善尽くしてもビリはある)、
対内在場や対外在場が不全な主体に修正を働きかけるかけないは状況次第(フェアを越えては助けない)、
そうした内容を責任概念は持つ事になります。(命題にも同じ構造が言えれば、真偽判定は疑似的問題。)

自他にその同じ責任を見るべく共通の課題として、
通用領域の広狭と確からしさとの相関(より確からしいものが取って代わる運動性)、
有限性(内外境界の存在)、この両与件の総合の帰結、
問われてるのは何についての確からしさなのかという限定化での、問われるべき事と実際のずれ、
つまり、問いの偏り(有限性に起因)の代替不可能(やむを得ない的な確からしさ)化を押さえましょう。
(確からしさそのものと有限者を、無限と有限の関係と見れば、その正常化という宗教の本質に相当。)

解決の対象(身体と社会と自然の間でも相互作用有り)やスタイル(自我と言語等文化とパラダイムも同)、
短期長期のそれらが偏りの直接原因だとして、その代替不可能化には、
抽象化と具体化条件割り出しの最大限追究(抽象と具体の行き来に拡張すれば、あるべき歴史性)、
問われるべき事と捨象の合致配慮(場を越境しない配慮込み)、
この相補的両者による、いらぬ飛躍のない内外統合を越えた解決を望まない有り様の実現が必要であり、
最大限追究の方は理解の要、かつ自由(振り回されなさ)の実質、
合致配慮の方は次元設定(特に主観への、差異性の捨象や共通性の捨象)の要、かつ平等の実質に当たる、
そう言えるならば、知性への評価基準変更で世界の健全化は可能なはずです。

ご支援の程よろしくお願い致します。