見出し画像

2628文字、文系者にとっての真理や歴史の論点について

2024-6-003

個別性が根拠になる局面では、より確からしいものが取って代わる運動性の受容を阻害してない個別性ほど確からしい為、
認識現象(対象位置づけ)も、代替不可能な内外事情(同種の他との共通要素捨象に可能なだけさらす事によって取り違えを最小化させた内外事情)にしか応じない実存を生きてる

(情報や能力や可能性の獲得喪失をその実存と整合させてる)結果の個別性が認識場の性質である時に、
その場において立ち上がってる認識が確からしさの上限と言えます。(存在するのと引き換えでない要素の存在への帰属が修正対象になってるその実存は、

帰属修正を自身の存在に先立たせる事によって有と無の境界線を上の運動性の帰結とする試みであり、
帰属修正に対し志向的でない有り様は帰属操作の被害者の発生に許容的と見なせる点からその発生に最も非許容的であるとの評価が可能なはずです。


ちなみに、この観点から欧米文系を、例えば、個別性に関する帰属修正が本筋でない有り様の弊害をもってハイデガーを批判するにしても、
そもそもフェアを越えた救済や介入の帰結も含むこの弊害は、帰属修正を問題解決の本筋に据える事が教義上できない宗教、

秩序を担う立場となった際に、秩序破綻まである求め続ける者の登場を帰属修正以外の概念を駆使して抑えた結果、現実との齟齬の肥大化を齎したとも見なせるそれが、
近代において諸々と分離したとはいえ文化レベルで浸透してる空間では、ほぼ回避できないものである可能性があります。)



つまり、その実存でない人(どの領域にどの程度注力するか、という有限性有り様がその実存の反映でない人)が、
文系事象に関してより正確な対象理解を得たと思っていても、それは小手先の話をしてるに過ぎない

(真善美と実存の関係が、理想を割り引く程度を最小にする現実になってない、
つまり、いらぬ限定を負わせる形でしか限定されてないものと付き合えない点では何も変わってない)わけです。

(乱雑さが増す現象について通用領域を広げる働きの現れと解せば、時間を構成してるのは、
言い換えると、抽象化具体化の交互反復による同一性変化性の同時達成としての展開性を駆動してるのは上の運動性となり、
個別性が根拠になる局面では抽象化具体化の精度、ひいては、時間の質が問われてると疑えます。)



また、場の取り違え最小な個別性が損なわれないように組み上がってる秩序像は、大小様々な社会にも思い描けるわけで
(例えば、先の実存である者の為す行為は修正余地がなく、先の実存でない者の為す行為は帰結や動機によらず修正余地があるけれど、
行為がそのどちらであろうとどう扱われるかが場の取り違えでない性質次第である秩序、

行為を見聞きした者が先の実存である場合にその内面世界で為される位置づけ、
行為が代替不可能な内外事情にしか応じない主体だけから成る社会や同主体の影響しか受けてない自然環境から受ける扱いは、その秩序像の具体事例です)、


林檎は数えられるのに蜜柑はできない的な原理不在が言えてしまうと、林檎も厳密にはできてないと見なさざるを得ない以上、
局面と着目無視の合致(感情や意見も含めフェアでない選抜に許容的ならこれは言えないし、質志向か量志向かを余裕の有無と無関係に決めてるならこれは言えないし、

明晰曖昧スペクトラム等の硬軟程度を局面次第としてないならこれは言えないし、
個別性が根拠になる局面で同種の他との共通要素捨象による個別性の抽象度上げを上限化しないまま明晰化を試みていらぬ対立生んでるならこれは言えない)の下での、
対他者(人以外込み)である平等や同対自己である自由を採用してない時点で、その人の文系事象に関する認識の確からしさは上限でなく、


市場や民主制は、代替不可能な内外事情にしか応じない主体像における事情の集積であってやっと受容に値する秩序
(確からしさが上限である為に修正余地がない類の整合作用)を齎すとの理解を欠いてる時点で、

同様に言える(少なくとも、上の運動性の受容阻害がない個別性とある個別性の差異に相当する文系的な論理性飛躍の有無を、扱い差異に反映させるのに失敗してる上、
理解も実力も、対象に関して持ってる抽象具体関係構造の像だとすると、前者の段階で原理不在が言えてしまう為、文系域での実力向上の上限化も損なわれてる)と考えましょう。



例えば、戦争の反省が、平和の名の下の泣き寝入り強要とか、奪われる側から奪う側への立場反転の支援に至る事もあれば、
奪う奪われる現象全ての否定、帰属操作と見なせるもの全ての否定、ひいては、有限(AとA以外の間の内外境界発生)の与件性とより確からしいものが取って代わる運動性だけから成る状態

(その運動性の阻害ない受容の帰結としての有限性有り様)を帰属修正の上限とした上で、
帰属修正の上限でない有り様全ての否定(この具体化が帰属修正的でないケース、

つまり、フェアを越えた介入などの、代替不可能な内外事情にしか応じない主体像をもっての具体化でないケースの否定も込みであり、
先の実存と整合的でない獲得喪失や先の実存の下での問題解決の集積収斂でない文化を肯定する内容なら、劣勢ポジションに対する擁護ももちろん否定対象)に至る事もあるのは、


抽象度の上限化が機能してる程度差異の現れ(帰属修正の上限化が論点であれば、帰属修正の上限化を内容とする限定現象は肯定される為、
限定作用自体の否定も、限定に伴い取りこぼされた部分の重視も論点ズレな上に、抽象度不足の証拠)であって、

文系域で抽象度が上限化されない原因(フェアを越えた介入としての救済に許容的でありながら全体主義を否定できてるつもりでいるなど、
歴史経験を生かし切れない原因でもある)は局面と着目無視の合致への志向の欠如


(客観は主観に対する同種の他との差異要素捨象を展開させた次元が必要な局面であるとの局面把握の産物に過ぎず、
その局面以外では自他の主観やその産物に対する個別性の取り違え最小化の実現程度を、扱い差異に反映させる必要がある、

この理解の不在故に、対歴史が単なる実態把握に事実上留まる原因ともなる為、
理想を割り引く程度を最小にしてる現実というポイントが紡がれてる状態からの乖離程度をもって歴史を評価する能力も、乖離を無くす軌道修正能力も持たない、
したがって、自分に関してすら被限定を最小化できてる感が常に勘違いである証拠となるこれ)にあると考えましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。