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3451文字、幸不幸を根拠とする有り様を倫理不全や知性不全として位置付ける空間へと変えるための理解

2024-8-001

幸不幸は表層形なので、そこを根拠にしてしまうと、修正余地なさのような内実の確からしさを根拠に表層形(表層形のみを問題にするという表層形込み)を引き受ける有り様と、
ひいては、内外境界発生意味する有限の与件性が、より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害を最小化してる時(代替不可能な内在性質と同外在性質との統合として現象がある時)、

修正余地がない(通用してる領域の広狭と確からしさとの相関という肯定否定の根拠から見て、
通用が行き渡ってる)為に解決状態とする解決観(認識対象にとっての認識場も含め、外在場の取り違え最小な個別性は、その場に置かれてるものに負わせて良い、
例えば、場の本質に即した役回りとして場を荒らすのを否定するのは、場の本質と乖離した負わされる理由のない秩序の受容を強いる泣き寝入り強要である、

という加工や限定についての、あるいは、倫理や美意識についての理解も込み)とバッティングしてしまいます。
(ちなみに、カント義務論は、人間の共通性を根拠に個別の現実的事情をくまない以上、
肥大化した実態に合わせる有り様を相対主義とした時の、肥大化しているいないによらず置かれてる場に合わさない絶対主義的スタイルと言えるので、ここで言う内実の確からしさには相当しません。)


(この負わせて良いという理解は、局面の取り違えでない個別性と着目無視との合致の下での対他者である平等、および、対自己である自由、
言い換えるなら、フェアを越えてまで自他を助けない、したがって、帰属操作に加担しないさせないし責任領域を侵犯しない救済観の根拠でもあって、
個別性が根拠になる局面での個別性無条件根拠化や個別性捨象を、論理飛躍として掴まえる事のできない形骸化した文系知性は、その合致の不在の弊害なので、

それら論理飛躍が修正対象になってない既存の文系空間が持つ評価基準の形骸性、
それら論理飛躍をそれぞれデカルトとカントに帰すなら未だ支配的な近代性が持つ評価基準の形骸性は、上の解決観によって解消されるはずです。)



実際、個体レベルであれ種レベルであれ置かれてる場に通用させ続けるという既に引き受けられてる存在課題と置かれてる場の性質との関係が、
抽象化具体化の不十分さ解消の下での抽象化具体化交互反復としてある時、その関係は確からしさが上限の現象であり、

修正余地ない有限性としてのそれを肯定するのが、実態の肥大化込みの肯定と実態の肥大化してない部分込みの否定の同時否定である為、
幸不幸(優勢劣勢有り様)が肥大化した実態としてあるのに、肥大化部分除去を論点とせずに肯定否定してしまう疑似問題

(代替不可能でない外在性質の影響まで認めてしまう過剰肯定と言える相対主義、
代替不可能な外在性質の影響まで認めない過剰否定と言える絶対主義)は上の解決観と整合してない知性倫理美意識である証拠です。


(整合してるなら、代替不可能な内外事情にしか応じない実存と整合的でない獲得喪失を、
この実存の下で生じた偶然性とそうでない偶然性を区別しない、同種の他との共通要素捨象を用いた先の交互反復の帰結であるという意味で文系的な論理飛躍のない変化不変化とそうでない変化不変化を区別しない、

あるいは、この実存の下での問題解決の集積収斂であるかどうかの差異を無視して文化と付き合う、
存在性の演出的発現が阻害されてないかどうかの差異を無視して芸術や競技的スポーツと、

片方の阻害を許してるのに他方に自負がある場合、林檎を数えられないのに蜜柑はできてるつもり的な原理不在がその他方に言えるわけだけれど、付き合う、
といった内実不問含め、修正する働きとして知性倫理美意識があるはずですから、

この実存と整合的でない獲得込みで獲得支援を、展開する既存の教育実践や肯定してる既存の教育論は、
肥大化した実態としての優勢劣勢有り様を搾取の発生とした時の搾取解消を阻害してる、
つまり、どんな対人理念を掲げてようとも搾取的な対人関係の原因になってると解せます。)



ところで、人間という種は性別システム(細胞が入れ替わるように個体を入れ替え、
仮説形成と検証との交互反復による仮説改善枠組みに遺伝子を落とし込むスタイル)を採用し、

どのような状態で赤ちゃんを産み、出産後の赤ちゃんとの関係をどうするかについての種の戦略は、
赤ちゃんと直接的関係である女性の有り様(価値確定の下での現実との関わり方込み)や赤ちゃんと間接的関係である男性の有り様(価値不確定の下での現実との関わり方込み)に響いてるわけですが、
実際には、その影響は文化(外在的な問題解決スタイル)や自我(内在的な問題解決スタイル)による加工を受けてると言えます。


つまり、自我と文化の関係はじめ、内在性質と外在性質の統合としてある個体は、
選ばれるに値するだけの確からしい現象となるよう代替不可能な内外事情にしか応じない実存を要請されてる

(先の相関を、何の差異に関してこの相関を持ち出すかという観点設定にも適用するレベルで、
先の相関にしか頼ってないという通用の行き渡った状態は、確からしさ判定の、ひいては、肯定否定反応の確からしさを上限化してるわけで、

確からしさを検討しない領域を持ってない、これを割り引く程度が修正余地ない有限性であるこの実存の反映に限定されてる、という理想現実関係が言えないなら、
その人の為す肯定否定反応は、負わせるに値する状態にまで持っていってないと見なせます)とした時の、


同要請が、性別の観点(種レベルの存在課題の観点)から個体を見る場合にも言えるのに、
近代パラダイム(内在性質についても外在性質についても個別性の取り違え最小化が封じられてる、

したがって、理系事象については原理とそこに代入される要素から成る関係を想定する人でも、
文系事象については、対認識や対実存をはじめ、現象を内在性質と外在性質の統合結果とした時の両性質の疑似化程度を検討するという、先の解決観と整合的な対現象にならず、
自由概念の解釈内容との連関もあって、具体化条件に相当する外在性質を取り込んでない現象、つまり、限定後でない現象があるかのような現象理解すらある、

言い換えると、自己の実存についてのその検討の産物である為に個別性を根拠にするしない、
ひいては、情報を文系的に扱うか理系的に扱うかを局面に合わせる処理も含まれる、

先の実存と整合的な対情報になってない、という意味で情報獲得の内実に対する検討が失われてしまう、
場合によっては、限定前後構造と限定を最小化する運動から成る先の解決観によって解消される類の哲学的疑似問題に振り回されさえする)の中にいる限りこの要請は生じない為、


先の同時否定(理系で言えば、仮説改善の上限化に必要な検証実験精度の最大化)が見られない知性倫理美意識の持ち主が、
生有り様なり個体の入れ替わりなり、存在課題の具体化結果に相当するものに言及していたところで取り合う価値はない
(取り合ってしまうと論点取り違えに付き合わされてしまう)ように思われます。



Aさんがある状況において振る舞った結果、Aさんがある対象に関して覚えた印象、
これらにも行動原理や位置づけ原理を仮説とした時の検証に相当する側面がある以上、
フィードバックが仮説改悪にならないだけの具体化精度が必要と言えますが、

同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化の不十分さ解消の下での抽象化具体化交互反復の帰結である変化不変化は肯定し、そうでない変化不変化は否定する場合、
場の疑似でない個別性に即した秩序(具体化精度が最大化されてる秩序)への志向故に、
ホスト等の管理者としての責任を果たさない一方で、特権は享受し続けるメンタリティが前後で変わらない革命の類は、形骸と見なされるはずです。


また、革命も芸術も、哲学の対象として扱われてきた以上、フェア志向(場が問うてる差異と着目無視との一致への志向)を欠いたまま芸術を語る(本文で見た原理不在)など、それらとの付き合い方が形骸化してる事態
(注力具合が二の段に何を掛けるかの違いにしかなってない事態)に対し、糾弾や修正の動きが見られない

(当然、何らかの理念への誠実さを自負してようと、林檎を数えられないのに蜜柑はできてるつもり的な原理不在をもって、張りぼてな理念を妄信してる形から脱せてない事が意味される)ようなら、
哲学の形骸性も(哲学を教育に組み込んでる場合はなおさら)言えるはずです。


ご支援の程よろしくお願い致します。