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我々が巻き込まれてるある歴史に内包されてると思われる問題について、哲学の3つの流れに目をやりつつ

21-2-003

まだ事情として抱えてるリミット外せてなくて、いつここに来れなくなるかも分からないので、不完全なまま投稿しておきます。


1 人類のある種の歴史への疑念

得る者が限定されてる状態を開く際に生じる、求め続ける者裏切る者問題(フリーライダー問題)に対し、
中世は(救済を開く理論を保持すべく)縛る絡め取る方向の末に現実との齟齬を抑えきれなくなり、
近代(個人の精神や国家の権威や科学の在り方を分離解放)以降の(封建制絶対王政なり、帝国主義や資本主義なりを)開く試みは、
表面的には開かれてる形を採りつつ実態は、得る者が限定されてるという実質が中世的な形式をまとう方向に収束してく流れに帰結するのでないか、

いずれにせよ、今やメインストリームなある種の歴史は求め続ける者問題に関する上滑りと見なせるように思われます。


管理者を代えるにせよ代えないにせよ、管理能力を問うのとは別に、役回りの割り振り、及び、任された者の対内在対外在が、
後述の5の形を内容にしてるなら、そうれ以上無理と言えるだろうけれど、
文系域の評価空間は鍋底に穴が開いてる(倫理や知性に欠けた部分がある、002参照)ので、
そこら辺の判断に正確さは現状期待できません。

歴史における政治や経済の形式変転にも同じ事が言えるとして、解決感覚(自由観や責任果たした観と表裏)に、穴を塞ぐに相当する効果の導入が、
我々の歴史には必要なはずです。



2 解体系アプローチへの疑念

行為行動含め、現象を内在外在の性質統合と見て、両性質を代替不可能化させる方向(代替可能な要素を削ぎ落し、それらに振り回されない状態へと至った分)に自由を見てる場合、
内外境界(有限性)の線を確定的な形に引き直す作業なので、
実質が詰まってる状態の反映形であれば肯定(表層形のみで断罪する有り様とは逆方向)という妥当な扱いから見て、有限性を尊重してる形の自由と言えるはずです。


他方、そういう内容でない内外境界解体は、目的(分断を悪と見る流れでの断罪なり、内在不問外在軽視な主体観に適う線引きの為の準備なり)はどうあれ、
有限者の身での有限性への超越的立ち位置という、主体の絶対化の方向性ないし態度顕現に思われ、
求める求められる関係もそこに含まれるだろう、内外境界絡みを除くという注釈がない以上、理論の時点で無理筋のように思われます。

また、二極併有は、不良と生真面目という中学生レベルの現実の時点で無理やり採るなら器用貧乏的状態が避けられないように思われる
(現実なりルールなりへの反動的反発と盲従を同時否定しておいて、先の有限性を尊重してる形の自由を表層形に反映させる方が通用的であると個人的には思います)ので、
限定通用的な理論として扱う(特殊への普遍扱いという飛躍を、帰属の操作を避ける)べきでしょうし、

器用貧乏が嵌るポジションもあるように、限定通用的ではあれ選抜対象になるとはいえ、その場合、正当性は(解釈の採択などと同様の)選抜管理の能力に依存するわけです。

さらに、構造主義に静から動へという枠組みで対峙したケースも、不変不動的な秩序なり傾向なりに抗する本筋は、
静動を見かけの問題として扱い、歴史性の構成する抽象化具体化の繰り返しにおける捨象精度が最大化されてるなら、その反映である表層形は肯定する枠組みである、そう捉えれば、

時代事情の要請による次善の策(表層反転で解決十分とする解決感覚の弊害許容)と解せるわけで、
次善の策の居座りを防いでくれる具体化条件の付し直し(場の本質的性質への紐付け)能力が別途必要になると言えます。


以上を踏まえると、少なくとも、問題解決のより確からしい原理を求めるのを止めるだけの信頼性を、解体系が持つとは思えませんが、
求め続ける者問題に臨む上で中心的地位には当たらないと言える直接的原因は、己の都合の絶対化の下で用いる
(都合の悪いものに対し、受容するだけの理由はないとする為に、絶対性への切り崩しとして持ち出す)事が可能なだけでなく、
近代枠組みの外に出ない限り、以下の事情でそこに収束してしまう点にあるのでないかと個人的には思います。

場に合わさない絶対性に挑むのに、相対化を場に合わさない形で、つまり、絶対主義的に持ち出す(批判根拠を自己については許容する)のを避けるべく、場に合わせるにせよ、
場の性質の確定性を実質問わないなら事実上の何でもあり、つまり、恣意的に用いてる形になる。
場の本質(代替可能要素を削ぎ落した残り)に合わせるとなると、先に見たように選抜管理や具体化条件付し直しが機能してる必要があるのに、
近代性(フェアアンフェアを区別しない保障観、同種の他との共通要素を捨象する能力が埋没してる捨象観)の外に出ない限り機能させられない。

例えば、常識の形骸化が生じてる事態への働きかけには具体化条件の付し直しでいくべきを、
近代性の外に出てない状態で規範性の切り崩しを行った結果、次善の策の居座りという自己と同じ症状を批判してる形、

つまり、批判の実態が、己に都合が良ければ気にしない側面持つ、単に自分に都合が悪いとの非難となるので、
批判は言わば、暴力(帰属の操作を減じる強制力はむしろその縮減)への自分好みになるまでの着せ替えで満足し、暴力自体の縮減に興味がない解決感覚の産物と見なせるはずです。


ここで、次元(着目無視)を確からしくする働きとして知性や倫理を持ち出す事により、個人の欲望や社会の形式を、帰属の操作のない秩序と整合的な方向へと向かわせるのに加え、
より確からしいものが取って代わる運動性(求め続けてる様とも見れる)との合一(阻害の最小化)にも向かわせる。

これが求め続ける者問題(ある種の歴史に見られる、結局は大した根拠のない限定状況を齎すと疑える上滑り)の解消形だとすると、
帰属の操作の縮減と直接関係ないように見える解体系アプローチは中心的役回りを担えない、そう言えるように思うからです。



3 構成要素考察アプローチへの疑念

構成要素の内部構造や近代枠組みの外に出ないと外部関係を考察しようにも近代枠組みの外に出ないと疑似的な枠組みや問題を産むように思われます。
近代枠組みは、内在不問外在軽視な主体観を分離解放の成功体験で強化してる形であって、

(主流の地で人権主権の対立構図の類、次善の策な時期があったとしても本来いらぬ管理者被管理者間の対立が、疑問持たれず存続してる例は、
ある意味、少なくとも疑似枠組みに通用してないケースがあるアプローチ、という実証実験の結果)
咎められた際に抵抗で持ち出されがちな自由や責任も、求め続ける者問題への考察も、その反映という限界を免れないはずです。


確からしいかどうかの差に当たる差異のみを取り出せる次元設定に失敗してる場合、失敗した者に帰属してるものまで、認識や存在(しやすさしにくさ込み)の正当性根拠として要請されてる、より確からしいものが取って代わる運動性が負う。
失敗の程度が大きいほど正当性は実質を欠くので、帰属を操作してる形を抑えるべく、できるだけのことしたけど失敗した形に持ってく為、
対内在と対外在で代替不可能なものにのみ応じる、別の言い方をすると、抽象化具体化での捨象精度最大化が期待されてる。
(この文脈では5の形が連動してる)

この問題を埋没させる形で自由や責任等を持ち出すのは、知性なり論理性を帰属の操作にあまり有効でない形で働かせてると言えるはずです。

逆に、近代の外に出てれば、文系域でも具体化条件の付し直しを機能させられるので、次善の策の居座り問題も解決可能な上、
論理的に妥当という何かが全体像の拡張によりある抽象物の一具体形と判明したパターン(井の中の蛙的状態脱却効果)が論理性自体にも見れるはずです。

つまり、論理展開を、通用が行き渡ってる状態を保存(整合への志向もこの要請であり、現象は整合性やその状態を越えないと捉えるべき)しつつの表層形変転とした上で、
より確からしいものが取って代わる運動性への限定化とその帰結のフィードバックの構造(抽象化具体化の捨象精度が論点)、

及び、その運動性と有限性の与件性にしか頼らない態度
(ある次元設定の下での通用領域と確からしさとの相関、それ以上の判断を控える態度を含み、この場合論点は、与件性に関する前者を後者に投入する形で次元設定を確からしくする話になる)
にまとめてしまえるはず。


現状は文系的局面で論理性を持ち出すと同種の他との差異要素の捨象と共通要素の捨象、前者を持ち込む絶対主義的事態(後者を用いるのは絶対主義と相対主義の同時否定)なので、
近代センスな解釈における理性(義務感や損得計算含む)による欲望押さえ込みの側面持つだろうけれど、
内実にアプローチしない秩序改善で十分とする解決センスは同じな既存の権利システムのように、以下のいらぬ対立が想像されます。

欲望の内実改善も局面の代替不可能な固有性に合わさせる必要最低限の加工でもない、言わばマニュアル仕事的な秩序の強制とそれへの不納得
(過剰要求からの不納得に対する、それは本筋でないとの説得は2での議論)。




4 ある種の歴史が抱えてる問題にとって必要と思われるもの

限定状態を開く試みは、2での静を動へ的発想が持つ誤解と同じ、見かけを論点にしてる構造の把握ミスであり、対都合が上滑りしてる点も同じと推測されるので、類推から、

2における修正形だろう、有限性を尊重してる形の自由、帰属を操作しないタイプの欲望(帰属を操作して何かを得る立ち位置への志向の放棄)、
それらの反映(実質が詰まってる状態の反映)としての表層形であれば開いてる程度閉じてる程度に関係なく肯定される(見かけでなく実質が詰まっているいないで肯定否定される)という方向に寄せる働きが、
ある種の歴史に必要なものでないかと疑います。

実際、資本主義における限定性を開く試みは、例えば、女性への扱いについて修正を訴える既存の主張における、押さえるべき次の3点を欠いてるとの疑念(002参照)と同じ問題を抱えてた為に、
その土地に合った形態でのヨーロッパ中世的形式をもって、その弊害抱えつつ何とか現実を回してく(フリーライダー問題をごまかしてく)以上の姿を示せてこなかったのだろうと思います。


人間扱いしてくれという内容の要求も、欲望や都合を満たす道具的扱いへの反発に過ぎない雑なものであると、
要求相手に対する欲望や都合の否定が、生物の形式や人間の形式の否定まで射程に入ってしまい、その無理筋や冤罪的非難(帰属の操作)によって、
人間扱いされる者とされない者がいるという疑似枠組みやその下での反転願望(ある種の歴史では古代以来意識され続けてる)という疑似的問題意識の枠内に留まってしまう為、
欲望や都合に対し、否定する部分をそれら形式の否定を含まない形に持ってく処理がまず必要。

(留まってる場合、表面上の批判根拠を自分の場合は許容してる形になるので、実態は、
人間なのにそこに属してないかのような扱いを受けてる事態、つまり、帰属の操作も己に都合が良ければ気にしない側面持つ、単に自分に都合が悪いという非難であり、
暴力への自分好みになるまでの着せ替えで満足し、暴力自体の縮減に興味がない解決感覚の現れ、そう見なされても仕方ない。)


注、
世界の形式に関する(ウィトゲンシュタインの例を取り上げた)言及(noteの記事)を目にしたので、それを受けて以下(例とは異なる見解)を付記しておきます。

仮に、この世界の形式を否定しないという配慮をするとなると、
誰の何の主張であれ、その人の中で、ある次元設定(着目無視の、つまり、捨象の枠組み)のもと通用領域の広狭と確からしさとの相関を踏まえ選抜した結果の主張採択だろうし、
不確定なものも局面事情(加工条件に相当)次第では確定的扱いをするわけだし、

限定される前と後という関係(与件としての有限性)があって、それ自体にまで否定や軽視が波及しないよう、
何ら限定されてない状態と仕方がない類の限定作用とを最大限用意してるしてないについての分離処理、及び、分離された両者に対する扱い差付けへの焦点化が必要
(理想現実関係や主語述語関係、それらへのプラトン等の反応に対する修正の必要性も意味する)、

そういう話(全体像としては3での構造の話に、有無の差異の登場含めた、有限性の登場理由の話を加えた感じ)になるかと想像します。



2点目と3点目は、002の該当部分(抽象次元と具体化、それぞれ5の形)の簡略版




5 日本人が持ってる実力観への疑念

日本人における実力向上の像には、場に即した崩れた形が必要な状況に綺麗な形でないと駄目という前提で臨んでしまう齟齬、場を荒らさない事をもって場に合わせてるつもりになる齟齬、それらへの対応、
つまり、綺麗な形を追求する事自体は強みではあれ、綺麗な形を必要なだけ割り引く対応が上手いとは言えない、かつ、上手くなる方向も潰れ気味なのに、
そこら辺への対応が知的領域においても、含まれてないのでないか。

しかし、求め続ける者問題に対して、上滑りに見える歴史に付き合う必要も、解決できそうに見えない形式(近代枠組み含む)に(形式自体の限界を持ち出し方の問題にすり替えてまで)こだわる必要もないし、
英語教育に実践性組み込むといった、個別事例へのテコ入れでもって小手先で済まして良い問題でもないはず。

場の本質を損なわないように形式や帰結を組み上げる能力(意義を外から保障すべくあらゆる場が要求されてる能力で、マクロ的変転に対し管理者が負う責任対象、かつ、有限性の形に振り回されない自由)、
場の本質に割り振りを合わせる内在場と対外在を持つ対応(意義を内から保障すべく場に置かれるものが要求されてる対応で、ミクロ的変転に対し非管理者が負う責任対象、かつ、有限性の曖昧さに振りまわされない自由)、

それらの実質的な獲得にまで遡った内容へと、我々は実力観を構築し直すべきと考えます。



6 コメント投稿用の組み直し簡略版(2000字)

欲望や都合の否定(それを満たす道具扱いへの反発などから)が生物や人間の形式(種の保存戦略の現帰結としての有り様)にまで及ぶ(無理筋や冤罪的非難)のを避ける処理が、
(表層反転で満足する解決感覚のパラダイム状態もあって)不十分なので、対資本主義なども暴力の着せ替えの域を出ない
(人間扱いされる者されずに属してないかのように扱われる者という枠組みの外に出れてない事態は、己の都合次第で帰属の操作を許容してる状況)とも言えるように思います。

我々も巻き込まれてる人類の主流の歴史は、得る者が限定されてる状態を開く試みが上滑りしたまま展開されてきたと、
開くに伴う、求め続ける者裏切る者問題(フリーライダー問題)について、縛る絡め取る対処の限界(解放に帰結)をヨーロッパ中世は見せてくれ、
近代以降の(封建制絶対王政なり、帝国主義や資本主義なりを)開く試みを見るにつけその問題を解消しない限り、結局は限定状態に収束してくとの疑念を拭えないと、言える気がしますが、

そうだとして必要なのは、閉じてるのを開くとの発想を捨て、
帰属を操作しないタイプの欲望(帰属を操作して何かを得る立ち位置への志向の放棄)、有限性を尊重してる形の自由(内在外在の代替不可能な要素にのみ応じる事による内外境界線の確定性高い内容への引き直し)、
それらの反映された表層形(閉じてる開いてる具合)なら肯定する、という捉え方だと期待します。

個人の欲望や社会が採る形式を(着目無視の枠組みを確からしくする働きとして知性や倫理を持ち出す事により)帰属の操作のない秩序との整合へと、
また、より確からしいものが取って代わる運動性(求め続けてる様とも見れる)との合一(阻害の最小化)へと、向かわせる先に解消形を見るわけです。

ただ、上滑りしてる歴史(言わば西洋)と上手く距離をとれないまま付き合う、
上滑りを解決できそうにない形式に、限界や弊害から目を背け(実践に際する理論への加工の妥当不当問題を、加工自体の否定にすり替え)てまでこだわる、
そうした傾向を、日本人が持ってる実力観(評価空間)は強めてしまうと疑えるので、

場に即した崩れた形が必要な状況に綺麗な形でないと駄目という前提で臨んでしまう、場を荒らさない事をもって場に合わせてるつもりになる、
つまり、綺麗な形を追求する事自体は強みではあれ、綺麗な形を必要なだけ割り引く対応が上手いとは言えない、かつ、上手くなるルートも潰れ気味、

日本に限らない話で、非を認めない、より確からしいものが取って代わるべき状態(通用領域が具体形パターンを網羅してない状態)にあると認めない、
そうした仮説刷新にとって鍋底に穴が開いてる状態を修正する(各場で問われてる取り上げるべき差異をできるだけ正確に把握し、自身の着目無視をそこに合わせるべきとの)働きかけに関心がない、

これらを次(先の解消形と整合的)の獲得と連動した実力観や評価空間の再構築によって抑える必要があると考えます。
場の本質を損なわないように形式や帰結を組み上げる能力(意義を外から保障すべくあらゆる場が要求されてる能力、マクロ的変転に対し管理者が負う責任対象、有限性の形に振り回されない的自由)、
場の本質に割り振りを合わせる内在場と対外在を持つ対応(意義を内から保障すべく場に置かれるものが要求されてる対応、ミクロ的変転に対し非管理者が負う責任対象、有限性の曖昧さに振りまわされない的自由)。

また、そのこだわる形式には、自覚ないレベルの近代枠組み、哲学レベルの解体系、構成要素検討系、共有系(冒頭で言及)があると思うので、以下の理解も必要と考えます。

解体系には、求め続ける者問題とは相性が悪いだろう、主体の絶対化(内外境界への確定性向上とは無関係な介入から、有限性に対する超越的立ち位置が示唆される理論)、
都合の絶対化(近代枠組みの外に出ない限り、使用はその方向に向かう、つまり、より通用性の高い他の方法が提示可能な以上、選抜や次善の策の対象であって、
選抜管理や場との紐付けの正当性に関わる、場の性質把握の深堀りにとり、同種の他との共通要素を捨象する能力が埋没してる枠組みでは限界ある)が疑われる。

構成要素検討系は、要素の内部構造や外部関係を考察しようにも、近代枠組みの外に出ない限り、
分離解放の成功体験で強化された内在不問外在軽視な主体観が、解決感覚(自由観や責任果たした観と表裏)に反映され、かえって疑似的な枠組みや問題意識を生む。

論理展開(及び望むべき歴史展開)を、通用が行き渡ってる状態を保存(現象を制約する整合への志向込み)しつつの表層形変転とした上で、
より確からしいものが取って代わる運動性への限定化(機能させるのに先の意義保障が必要)とその結果のフィードバックの構造(抽象化具体化での捨象精度が最大化されてれば、件の運動性の阻害も最小)を、
その拡張形としてもらう(論理性を件の運動性を阻害しない形で持ち出してもらう)には、

限定される前と後という関係(与件としての有限性)が世界の形式であり、それ自体にまで否定や軽視が及ばないよう、
何ら限定されてない状態と仕方がない類の限定作用とを最大限用意してるしてないについての分離処理、及び、分離された両者に対する扱い差付けへの焦点化が必要
(理想現実関係や主語述語関係、それらへのプラトン等の反応に対する修正の必要性も意味する)と認めてもらう必要があるかも。


ご支援の程よろしくお願い致します。