平和希求が、戦争とは別の形の、不当に扱われる現象の原因となり得る現状は、戦争経験やその周知を十分には活かせてない形
2019-5-005 第二次世界大戦を日本人は反省できてない的スレ(大艦巨砲主義さん)に投稿した内容
戦争経験やその周知を踏まえて平和を求める、
これの内実が未だ反動レベル、
つまり、十分に活かす形で踏まえた平和希求でない事が問題で、
この点は、戦後憲法も、国連も、同じと思います。
確からしいものと確からしくないものの差
(通用してる領域、満たしてる領域の広狭)を、
感覚含め、認識の根拠にしてる点は同じでも、
何に関してそこの差を見るか、についての確からしさを、
厳格に見ようとしてる人と、そうでない人がいます。
フェア
(その局面において問われるべき差異だけを問うという、
その場その場の本質と着目無視との合致)が、
その競争の、その協調の、または、競争か協調かの選択の、
基盤とされてるか、
そこを問わずに争いを否定する人達は後者です。
その下で生じた不利益や損失なら引き受けるべきと言える、
割り振りについての確からしい原理を見出す、
というレベルで有限性と向き合う事をしないまま平和を謳うのではなく、
戦争の被害だろうと、不当な扱いを受けるという現象の一つとして捉え、
その現象全体を否定対象とする事で、
平和希求が別の形の不当な扱い現象の原因となる事態を防ぎましょう。
日常レベルで空気を読む事が要請される傾向が、
日本では現状、
場が荒れないのと引き換えの泣き寝入り強要、
つまり、形骸的(内実にアンフェアを詰められる)平和への倫理的鈍感さに繋がってますし、
一方で、個人が全体に合わせる傾向の強さを戦争等と結び付け、
個人の尊厳を、場に合わさなくて良い権利であるかのように持ち出す向き(近代の弊害)もあるわけです。
どちらも不当な扱いを齎す枠組みと捉え、
場の表層に合わせるよりも、
場の本質(井の中の蛙を反面教師としつつ取り出した代替不可能な固有性)のみに合わせる方が確からしい、
この観点を、空気を読むに持ち込むところから始め、
無数にある局面も、内面世界や自国社会や国際社会も、
場として同様に扱われ、
場の本質に即してる限りにおいては、
ポジションや具体的有り様の規定も、
それこそ、場を荒らすや迷惑をかけるも、
肯定される、
そんな社会に近づけましょう。
ご支援の程よろしくお願い致します。