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人類の現在主流の歴史(西洋ベースの歴史)から受ける負の影響を抑えつつ付き合っていくのに持つ必要があると思われる軸について

2021-2-004
多少削ったのをまとめサイトのコメント欄に投稿しておきました:


人類の主流の歴史(西洋ベースの歴史)からのいらぬ影響を抑えるという点では、単に日本人が宗教観なり哲学的行為なりに軸を持つというだけでは不十分で、
主流の歴史が抱える負の側面と見なせるような要素(宗教由来もある)に主流の哲学(構成要素検討系、解体系、共有系)は現状を見るにつけ有効とは言えない、
これを事実として認め(盲目的に合わせるような距離感を排し)つつ、付き合う際の軸として、その負の要素に対するより通用性の高い軸を(宗教観なり哲学的行為なりに取り込むべく)求めてくべきでしょう。
それについて個人的には以下のように考えます。



判断作業は、通用領域の広狭と確からしさとの相関、及び、より確からしいものが取って代わる運動性から逃れる事はできず、どのような枠組みの下で前者を見るか、後者が展開されるかだけだとすると、

できるだけ確からしい判断をしたい
(疑似的な問題意識の混入は、通用領域が限定的なものを行き渡ってるもの扱いしてる、代替可能なものを代替不可能扱いしてる、
つまり、表層的要素に振り回されてる不自由状態、いらぬ被限定状態、必要以上に割り引かれてる状態なので避けたい)にせよ、

ある差異は取り上げられ他の差異は無視される枠組みを、場(内面や局面)の代替不可能な固有性を損なわない形で組み上げる、
内面場や対外在の個性(偏り)を、資質と環境の間に関する、具体化と抽象化の捨象精度を最大化させつつの行き来(歴史性)の帰結とする、
これ以上の事はできない(判断という文系的整合試みにおける、通用が行き渡ってる状態の確保)と割り切って、捨象精度の問題と向き合うべきでないかと考えます。


次元設定(着目無視の枠組み)の基本的性格には、同種の他との差異要素の捨象と共通要素の捨象、という真逆の二つがあり、
主観のような個々の固有性が根拠になる局面(文系的局面)に対し、前者の厳密捨象を持ち込むパターン、どちらも厳密には持ち出さないパターン、後者の厳密捨象を持ち出すパターンがあるとして、

一つ目は、近代以降の欧米の、理系での一流の実績の反映もあるだろうけれど、マニュアル仕事的な、各場の個性との齟齬を抱える対応に留まるだろうし、

二つ目は、近代教育が前提の社会では一つ目の反動(内実不問な表層反転な点で、分離志向の近代枠組みの外に出てない)と見なせる上に、自他への肯定否定が井の中の蛙的な対象位置づけに留まる
(具体形パターンを網羅した上でなおそれらに通用してるものへの志向は、特殊物への普遍扱いを、帰属を操作してる形を、弱めてくれるのに、
主観に対し個々の差異捨象としてのその志向だけある的パラダイムへの捨象観修正でなく、その志向の放棄に近い)のに対し、

世界標準の知性枠組み(前者捨象特化)の外に出る三つ目は、
世界には、限定される前と後という関係(与件としての有限性で、行き来として拡張すれば歴史性)の形骸化を、何ら限定されてない状態、及び、仕方がない類の限定作用、
これらの最大限準備で抑えるという問題(文理の別含む、先の捨象選択も限定作用)があるだけ
(理想現実関係や主語述語関係、それらへのプラトンカント等の反応含め、この問題と整合的でない問題意識や枠組みは疑似的なもの)だとして、
文系域でその形骸化を最小にするものと考えます。


(主語の述語化の前に主語の切り出しがあるように、有限者である我々の認知は、
先の前と後の関係を、行き来として拡張した歴史性、この場合、種の保存としての歴史性における前述の行き来の帰結である、身体形式の固有性をもって世界を切り出してるようなものであって、

この場合の切り出すという限定化作用を、受ける前のものについて思いを巡らす作業について言えば、
あり得る具体化条件による加工を全て外すという抽象化作業に他ならず、捨象精度の問題を先立たせて精度最大化させないと的を外した話、帰属を操作してる形を最小化させてない話にしかならない、
つまり、上の形骸化抑制問題と整合的でない形で持たれてる問題意識や枠組みは疑似的なもの、という話に結局帰着するように思われます。

なので、認識や主観に立脚する系にせよ、それに問題を覚え別の道を模索する系にせよ、
端的に言い換えると、デカルトに肯定的な系譜であれ否定的な系譜であれ、その話の下に位置づけをし直すべき、
例えば、内在不問外在軽視な自由観を強化させてる形の近代が、自然に対し採ってきた態度も、その文脈で修正するべきと考えます。)



特に、三つ目で為す上の割り切りに当たる上限は、
人間に特有の次元設定自在性に(使いきれてないとの自覚もなく)振り回されてる不自由状態(肯定系の対有限性で得る自由の形骸化)、
持ってる内面や向き合ってる局面で、場にとり表層的な要素を代替不可能的に扱って、取り合わずに良いものまで苦悩(無自覚含む)に含め解消反応を展開する、
という振り回されてる不自由状態(否定系の対有限性で得る自由の実質を、内外境界に対する確定性高い内容への引き直しと見た時の形骸化)、

そうした意味での自由不自由と、社会なり個人なりの個性との間の関係に対する肯定否定が、
内実改善されてる歴史性(捨象精度を最大化させてる抽象具体の行き来)の現帰結である個性なら肯定する(場の性質として場に置かれるものの有り様を規定するに値する)との理解と整合的でないせいで、
帰属の操作の受容強要としての内容を持ってしまうという暴力性、

これらの抑制(確定性の高い内容に限定作用を持ってく事により対有限性で得る自由の形骸性を抑える試みは、場の本質の下の平等を自他に齎す働きでもある)が可能であり、

欲望の過不足ない否定(生物や人間の形式にまで及ぶ否定も、悪貨が良貨を駆逐し貨幣意義の崩壊呼び込む的展開も、防いでる)の中身を、
また、帰属の操作のない秩序と整合的な欲望(帰属を操作して何かを得る立ち位置への志向の放棄)へと持ってく働きを意味するその方向性は、
以下との決別、つまり、人類の現主流の歴史の内実改善(帰結を受容に値するものへと向かわせる働き)でもあると期待します。


奴隷として扱われる立場から扱う立場への反転願望(過剰否定、つまり、否定の求め過ぎと見れば次の問題に吸収可能)の実現ようなルートを潰す仕掛けがあるとは言えない、
求め続ける者裏切る者問題(フリーライダー問題)を解消しないまま、得る資格を開いてる
(その理論で現実が回るよう現実の方を理論に無理くり合わさせる、縛る絡め取る方向でその問題を抑えた形の中世は、分離解放に帰結)、

直接的な関係にある古代の二つの理論における、そうした疑念なり問題点なり解決感覚なりを現在でも保存してる諸々
(対資本主義がその典型で、開く系の政治形式にも秘められてると見るべきだろうし、分断憎しなり規範憎しなりが疑われる思想は暴力の縮減でなく着せ替えに堕す資本家憎し的過剰否定の構造持つ)、

つまり、場の代替不可能な性質と場の秩序の有り様との紐付け(場の管理者が負う責任対象)の欠如は変わってないのに、善や正義のニュアンス出してごり押しするなど、
帰属の操作の縮減に向かわない、見かけの問題(閉開、遅速といった疑似的な枠組みや問題意識の展開)に終始してきたこれまでの対応(知性や倫理の用い方)。

(求め続ける者問題への、欲望の上の意味での内実改善での対処と、
より確からしいものが取って代わる運動性を何かの確からしさを問うという形で限定し具体化する作業それ自体に、その運動性を投じる事で、限定されてなおその運動性が阻害されてないと言える状態に持ってく試みとは、重なるという理解、

及び、阻害されてないより確からしいものが取って代わる運動性に紐付ける方向性と解決行動とが乖離してる西洋、乖離を望まない自己、という位置付け、
これらから成る枠組みが件の軸であり、また、解決反応の確からしさ向上を西洋に蓋されてる全ての人に必要なものであると考えます。

なので、
場に表層的要素込みで合わせてる状態に対し、表層的要素を取り除いて合わせる方向でなく、場に合わさないという方向に向かい、その帰結の有り様に問題ありと見るや表層的要素込みで合わせてる状態に向かう、
この内実改善せずに表層反転を振り子する解決センスのまま、対規範なり対主観なりに取り組んでる限り出られない、
内実はどうでも良いから都合の良い表層形をよこせという要求の応酬な内容の歴史に、自分で自分を押し込んでる形の人類を、解放するものでもあると、その軸を捉えましょう。)


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