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【エッセイ】 書くことを、だいじょうぶなことにしてくれて、ありがとう

スキをありがとう。
読んでくれただけでうれしい。それはほんと。
ずっと前に書いた詩。ちょっと前に書いた詩。今書いた詩。
人に読んでもらうのが、こんなにうれしくなることだなんて。

       *   *   *

私は読み書きだけは早熟で、4才でノートにお話を書いていた。さるとおひめさま、だとか、たわいもない話で、さし絵やマンガもかいた。両親は、とりたてて、早熟な私をほめそやすことはなく、逆に、母は私が「書く」ことを禁じた。書かないように言われたことがあるのは、小学校入学前から卒業までで、私が覚えているかぎり、3回ある。

最後に言われたのは、小学校の文芸クラブで、創作文を書いたあとだ。小学6年生の私の40ページ大作は、同じ小6の主人公の少女が、殺人をかさねる話だった。母は、芯は強いがおだやかな物言いをする人で、その時も、叱られると言うより、諭されるように言われただけだ。私はあなたが、そんなお話を書くのはいやだと。もうお話を書くのはやめたらと。

それだけなのに、私は、ふさわしくないほど大げさな言い方をすると、そこで筆を折った。私は、それから創作文を、書こうとしたことはあるとは思うのだが、書いたことはない。

小学校卒業の頃、やめたことがもうひとつある。6才から習っていたピアノだ。やめたのはレッスンの方なのに、私はまったくピアノにさわらなくなり、弾くこと自体をやめた。子供の時の習いごとをやめてしまって、私のように見向きもしない話は、よく聞く。小さい頃早熟だっただけで、私は普通の子どもだった。

そのうち私は、ピアノをひくのは、ピアニストとかピアノの先生を目指している人だけがすることだと思うようになった。6年生が終わる頃からの私は、自分がうまくできそうにないことや、続けるのにかなりな努力がいりそうなことは、ハナからまるでしないか、すぐあきらめ、全か無かのように、ものごとを考えるようになっていた。

ピアノの上達をめざしてのレッスンを続けないのだから、弾くこと自体に意味がない。好きな季節は夏と冬、とも言い切っていた私の考え方だ。中2病という言葉があるが、これは、わたしの小6病とも呼べるかもしれない。

そして、書くのをやめたら、という母の申し出を受け入れたのだから、お話を書くことは全くなかった。私はたぶん、書かなかったのでなく、書けなくなったのだと思う。たったあれだけの母の言葉で。そして、ピアノのように、私には、書くことが、書くことを仕事にする人だけがすること、になっていった。

       *   *   *

夏と冬が好きだった私は、今は、名前と同じ秋が好きだ。春も好きだ。でも、全か無かの考え方のなごりがあるせいか、私は、始めてみる、ということに、なにごとにも、かなり躊躇する。行動になかなか移せない。結果も、まわりの目も、考えるだけで過剰反応してしまって、やってみるより、やめておく、になる。自意識過剰なのは、わたしの小6病が続いているのかも。特別な人だけが、できる人だけが、するのを許されている人だけが、してもいい、と思ってしまうのかも。

今年の6月初めにNoteを始めたのは、そんな私には大きな一歩だった。

今思い出しても、何が私をふみきらせたのか、はっきりしない。

ポストイットで貼った、やることリストの一つだったからか。毎年若くはなくなる自分を押したかったからか。新型ウィルスで、ふだんと違うことをする時間も気持ちの余裕もあったからか。

詩は、いつしか書くようになっていた。その私の詩を、この街で読んでくれた唯一の人が、どこかで発表したら、と言ってくれたからか。それも、もう3、4年も前だが。どうしても自分の書いた「おとうさん」という詩を、人に読んでもらいたかったからか。

その全部か。

気分が落ちている時に、誰かに言われた何気ないひとことが引き金で、感情のコップがいっぱいになって、泣けたり爆発したりしてしまうように、ひと月半前に、私の「思い」のコップに、あふれさせる最後の一滴が入ったのだろう。

       *   *   *

Noteに参加して、私は書きためた詩や、現時点で書いた詩などをアップした。すぐに、手をふったり、つついたりしてくれる人があらわれた。私の詩が、誰かの目にふれた。それだけで、うれしかった。

なんでうれしいのだろう。
話すのには、相手がいる。相手がいるから、おしゃべり、ができる。
書くものは?
同じだろうか。
だれかが読んでくれるから、お話、が語れる。
だれかが読んでくれるから、詩を詠める。

認識してもらえなかったら、実体はあってもなくても、同じこと。
それで、だろうか。読まれて初めて、私の詩が存在したことになった、のか。


実体が見えないというと、Noteの参加者もだ。
私にかかわってくれる「だれか」は、ウェブ上でのつきあいで、それこそ実体は見えない。でも、「だれか」は、それぞれ名前があり、ひとりひとり違う。

気がつくと、「だれか」は、あなた、だった。あなたたち、だった。
私にコメントをくれ、支え、励まし、笑わせ、のらせてくれる
自分の作品を見せ、私を刺激し、感動させ、震えさせ、照れさせ、考えさせてくれる
どこか知らないところに連れて行ったり、見たことのない景色を見せ、思ってもみなかった気持ちにさせてくれる
あなたたち、ひとり、ひとり。

私が書く詩を、これほどにも、あたたかく受けとめてくれ
書くということを、こんなにも励ましてくれる
書く私をラクにし、自分のことさえ、ちょっとずつ信じさせてくれる
私が書いてもいいんだと、だいじょうぶだと、思わせてくれる
あなたたちがくれたコミュニティ。

ありがとう。

書くのが楽しいので、今の私は書いている。
詩を。つぶやきを。3行短文を。まさか、こうしてエッセイまでも。
創作文は、やっぱり、二度と書かないだろうと思うけど。

読んでくれるあなたがいるので、続けられている。
書くことを。
毎日書くことを。
書けないと思っていた私が。

ありがとう、Noteというものを創って運営しているみなさん。
ありがとう、私の詩を読んでくれるみなさん。
ありがとう、私にスキやコメントをくれるみなさん。

サポートを受けた時は、涙ぐむほどうれしかった。余分なわざわざ、を辞さず、押してくれた背中。
でも、もっとうれしかったのは、添えられていた言葉のほう、正直。

言葉は私を泣かせる。
言葉は私を動かす。

そして
読んだしるしを残してくれなくても
私は、ほんとうに、ただ
読んでもらえることが
心からうれしい。


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