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人事の顧客は誰なのか?

人事(を含む間接部門)で仕事をしていると、「誰に顔を向けて仕事をするべきか?」という問いにぶつかることが、少なくないと思います。研修の作り方を紹介した記事でも、「登場人物」という言い方でもって、この問いに触れていました。

以前、研修に関わる人として、登場人物を整理しました。今回は「現場」、具体的に言うと、「受講者の上司」という人があらたに登場したわけです。これで、研修に関わる人は、「人材育成担当者」(あなた)と「受講者」と「受講者の上司」になりました。今あなたが取り組んでいる研修(というプロセス)について、三者面談をするとどんな話し合いになるでしょうか?

「現場で役立つ研修」にするために』より

人事の顧客は誰なのでしょうか。

経営者? 社員? 「社員」の上司? 経営者や社員の向こうにいる、自社の顧客? 採用業務であれば、ここに学生も加わるでしょう。

おそらく、ここに挙げたすべての人たちが顧客なのだと思います。その時々で誰に力点を置くかは変わるとしても、「多様な顧客がいる」ということ自体は揺るがないと思います。

2つの多様性

多様な顧客のなかのひとつである、「社員」にいったん着目してみましょう。

そのうえで、少し長いですが以下の引用を読んでみてほしいです。この引用は、『ゼミナール選択のメカニズムを解き明かす ー5つの学生タイプ、4つのゼミ選択視点ー』というタイトルからわかるように、大学でのゼミ選択における、学生のタイプ(Type A〜E)ごとの選択視点の違いを論じたものです。


Type Aの自己認識レベルは高い。自分のことがよくわかっているし、現状を積極的に肯定している。そして、未来展望も描けている。今の努力の延長線上にありたい姿がある。だから、積極的に活動できる。つまり、ゼミ選択以前に、自身の展望が描けている。だから、ゼミ選択視点は、シンプルになる。

Type Bの自己認識レベルもまずまずだ。自分のことが何となくわかっている。そして、もっと自身を高めたいと考え、現状を積極的に否定している。未来展望もおぼろげながらに見えている。そして、ありたい姿に向けて自分をもっと高めていきたいと考えている。ゼミという存在を自己成長の大きなチャンスととらえている。だから、展望を持ち、そして、自身が成長できる環境にも想いを致す。

Type Cの自己認識レベルはあまり高くない。自分のことがよくわかっていない。ただし、今のままでいいとは思っていない。現状を消極的に否定している。だが、未来展望は不確かだ。何をすればいいかわからない。だから、大きく揺れる。他者の影響を強く受ける。そして、不確かながらも、自身が取り組むべき課題を特定できるかどうか、展望視点を持てるかどうかで、このタイプのゼミ選択は大きく変わる。(略)

Type Dは、自分では自己認識できていると思い込んでいる。自分は「まあこんなもの」と現状を消極的に肯定している。しかし、自身の課題や成長可能性を自覚できていない。そして、自分が見えていると思っていながら、実は見えていないから、未来展望を持てない。そのままでいい、その日その日が楽しければそれでいいと思っている。だから、ゼミ選択は安易なものになる。現状を継続したいがために環境視点は重視するが、積極的な視点はそれ以外には形成されない。

Type Eは自己認識ができていない。言われるがまま、周りに合わせるばかりで自己がない。必然的に未来展望はない。考えていないし、考えたくもない。そのような状況では、ゼミ選択視点は明確には形成されない。

ゼミナール選択のメカニズムを解き明かす ー5つの学生タイプ、4つのゼミ選択視点ー』より

5つのタイプを知ってしまうと、「学生」というひとくくりの主語でもって、彼らのゼミ選択(意思決定)を論じることが、乱暴な議論に思えてくるのではないでしょうか。「学生」という、ひとりの人はいないのです。そこにいるのは、(控えめに大雑把に分けたとして)Type A〜Eという5人の人であり、だからこそ、それぞれの人に必要な手の差し伸べ方も変わってきます。

大学を自社、学生を(いま着目している顧客である)社員に置き換えるとどうでしょう。社員の自己認識のレベルが未来展望に影響を与える。結果として、「どんな仕事がしたいのか?」「どんなふうに仕事をしたいのか?」というキャリア選択において重視する視点が変わってくる。上記の引用はそのまま、ビジネス・パーソンについての言説として読めると思います。

「人事の顧客は誰か?」という問いに対する答えには、2つの多様性が含まれています。経営者、社員、自社の顧客、学生といった、「役割」としての多様性。そしてもうひとつは、「社員」を取り出したときに、そのなかに蠢く「個人」としての多様性

「ウチの社員はー」

個人的に最近とみに感じるのは、「ウチの社員はー」「最近入ってくる若手はー」などといった、デモグラフィックなくくりで何かを語ったとしても、得るものは少ない、ということです。

新卒一括採用 / 年功序列 / 終身雇用に依拠した護送船団方式が崩れて、成果主義が台頭してくると、社員の個別性が前面に出てきます。そうすると、デモグラフィックではなく、個人の内面に依拠したサイコグラフィックな語り口が必要になってきます。

ちなみに、成果主義が引き出す社員の個別性というのは、「成果によって評価結果や報酬がバラバラになる」という結果の個別性はもちろんのこと、「成果を出すために必要な支援はイロイロである」というパフォーマンス・マネジメントという意味での過程の個別性のことをも含んでいます。

エンゲージメント調査は、社員のサイコグラフィックな個別性を可視化しようとする取り組みにあたります。上司と部下での定期的な1on1は、社員のサイコグラフィックな側面まで踏み込んで個別的なパフォーマンス・マネジメントが必要なことを表しています。年下上司年上部下という言葉は、デモグラフィックな語り口が破綻しかけていることを示しているわけです。

「社員さん」は存在しない

もちろん、デモグラフィックな切り口がすべてなくなるわけではありません。人事制度や公的施策との接続を考えたとき、それをなくすことが得策とは思えません。「社員」を語るときの解像度が、デモグラフィックとサイコグラフィックの組み合わせ(マトリクス?)になっていくのではないかと感じています。

人事は本来、「間に関わる柄」を扱うという、人間中心の価値観に根ざした仕事であるはずです。一方で、人事が迷い込みがちな隘路というのが、「他柄」すなわち「ひとごと」としての仕事に成り下がってしまうこと。あるいは、経営や現場という、顧客であるはずの周囲の人たちの目にそのように映ってしまうことです。

人事の仕事が人間中心のものであるために、同時に、ひとごとにしないための方策のひとつは、「社員」というくくりで考えたり語ることに慎重になることなのかなと思います。「社員」という大雑把なくくりで人事に向き合われた「Aさん」は、「ああ、この人事は【私】のことを見ていない。ひとごとだと思っている」と感じるでしょう。

「会社さん」が存在しないのと同様に、「社員さん」も存在しないのです。

青野:「カイシャの性格」って言ってしまうけれど、「カイシャさん」はいないので、結局その風土を作っているのは、実在する誰かの性格なんですよね。たとえば、それは上司の性格かもしれない。だから、その上司が変われば風土も変わるかも。僕たちが戦う相手はもやもやしたバーチャルモンスターではなく、しょせん同じ人間です。そういう見方をすれば、新しい戦い方を考えられるかもしれません。

「会社さん」は存在しない。変えるべきはそこにいる同じ人間──副業と会社についてサイボウズ青野社長と考えた』より

人事の顧客は誰か?

冒頭の問いに戻って考えると、答えを一つに決める必要はないし、そうすべきでもないのだと思います。むしろ、その逆。「多様な顧客」の「多様」を突き詰める。「社員さん」の、その先まで目を向ける。それが、人事という仕事を「間に関わる柄」たらしめるのだと思います。

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