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どんな動脈の中で生きているのか?

新型コロナウィルスが蔓延していた武漢で、都市封鎖中の生活が綴られた「武漢日記」を読んでいる。

日本でも、四月あたりから緊急事態宣言が発令され、外出が制限されたり、テレワークが奨励されたりしたが、その「震源地」である武漢での出来事が綴られている。

まだ読み始めだが、年始の武漢はどのような雰囲気だったのかがリアルに記録されている。
 
結局、日本では都市のロックダウンは行われなかった。

いまでも、たとえばミャンマーのヤンゴン市などではロックダウンが行われている。

ロックダウンの定義はまちまちだけれど、日本では、外出自粛が求められたものの、通行許可証などが求められることはなかったし、企業として休業を強制されることもなかった。そんなんで自粛なんてできるのかな、と思ったけれど、少なくとも東京では、大企業が中心となって「自主的に」自粛を行い(自粛ってそもそもそういう意味なんだけど)、それなりの成果をあげていたように思う。

それに伴う経済的なシュリンクは「みんなが自発的にやったことだから、みんなの責任ですよね」ということになったあたりは、責任の所在が不明瞭で、まさに日本的というか、不思議な感じがするけれど。

でも何より驚いたのは、食料品の供給が途切れなかったということだ。マスクと、なぜかトイレットペーパーがまったく売っていなかったのだが(懐かしい。特にトイレットペーパー不足は本当に謎で、しかも本当に足りなくなったので、実家からいくつか分けてもらった)、食品がなくなったということはなかった。

単に、食品メーカーと、それを支える物流、そして小売が休業をしていなかったということなのだけれど、これは本当にすごいことだなと思う。この「武漢日記」を少し読んだだけで、「都市封鎖」というものの重みがわかる気がする。
 
1000万人規模の人々が、狭いエリアに密集して住む、というのがそもそもかなり異常なことなのだと思う。西暦1700年ぐらいの調査によれば江戸の人口は110万人程度で、それでも世界の中では人口が多い方で、ロンドンでも70万人、パリでも50万人程度だったという。

そもそも、日本全体でも3000万人ぐらいしかいなかった。飢饉などもあって、その当時の社会では、そのぐらいが限界だったのだろう。

現実的にはありえない話だけれど、もし東京の23区だけが空間的に切り離されたとしたら(東京以外全部沈没するとか、宙に浮かび上がるとか、異次元にワープするとか、なんでもいいんだけど)とんでもないことになるだろう。

毎日、どれだけの食料品が東京で消費されて、そしてどれだけの廃棄物が出るのか、ということをあらためて知ることになるに違いない。普段は「流れて」いるから意識しないことが、麻痺して、機能しなくなると、とたんに綻びが出る。
 
僕なんかはたいして自炊もしないで生活しているが、それはこのインフラが整っていてこそだな、と感じる。台風のときなんかに、一時的に物流がストップすると、(一部の買い溜めをしている人たちがいるせいもあるだろうが)食料品が買えなくて、一気に普段のツケが回ってくることになる。

それと同時に、これだけの人たちがこの地域に密集していることの異常さを知る。
 
もっとも、しばらくは東京を離れるつもりもないけれど。僕みたいな人が多ければ、すぐに変わる、というわけでもないのかな。

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