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歴史を学ぶ意義エックス

言うことがコロコロかわる人は信用できないが、信用されないのはその人自身の問題なので、信用されなくても変わりたければ変われば良い。

ところが国家はコロコロ変わることを許されない。国家は滅ばない限りある程度の一貫性を持っているはずだ、と国民からも周りの国々からも思われていて、その結果、ある程度の信頼を勝ち得ている。だからこそ(?)日本円は何の支障もなく使ったり交換したりできている。

しかし国家の言うことがコロコロ変わってきてしまうと、「こいつと何かを約束してもすぐ破ってきそうだな」と思われるようになって信頼度が下がっていく。信頼度が下がると、良い感じの約束はできないものだ。

国家はなかなか死なないが、国家を運営する人は死ぬので、国家を運営する側にまわる人は、言うことをコロコロ変えないためにも歴史を学ぶ必要がある。だから基本的に、学校で教える歴史は、国家の運営、つまり政治史である。

一方、歴史がほとんどの人にとって「役に立たないのでは」と感じられるのは、ほとんどの人は政治家にも官僚にもならないからだ。しかし国家がコロコロ言うことを変えているかどうかは、歴史を知らなければ何もわからない。
歴史を知らずに政治に参加する、ということは、信用できるかどうかわからない赤の他人に、財産を預かってもらうのと同じくらい危うい。

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歴史を学ぶ意義については何度も考えてしまう。
歴史を学んだところで、力を得ているようには感じないからだ。

しかし、言うことがコロコロ変わる人や、この人大丈夫か…?という怪しげな人のことは、なんとなくわかるようになってくる。利口そうに振る舞ったほうが、現代は生活がうまくまわりやすい。多くの人が、利口そうな人の話を聞いてフムフムとうなづき、説得されていく。しかし、その利口そうな人が詐欺師だったらどうするんだろう。

「詐欺師じゃありません。なぜなら、あの人の話は筋が通っているからです」

論理の大切さはぼくも重々承知しているのだが、論理は情報の並べ方で簡単に筋が通っているように見えてくるものだ。そこが論理の恐ろしいところでもある。歴史を知っていると、歴史が恣意的に扱われていることがたまにわかったりする。うまいこと扱うと、意外に筋が通ってきてしまうのだ。
世の中の大半の人が歴史を知らないと、詐欺師でも嘘つきでも、人気投票で上位に食い込むことができる。

でも残念ながら、歴史は1日では学ぶことができない。
今日の出来事もやがて歴史になっていく。果てしなく果てしない。

(余談)
ぼくが残念に思うのは、教養はなぜ必要か?という話で、「世界のエリートはみんな教養があるので、教養を身につけておくとそういう人たちとも会話が弾んで良いです」みたいなことが言われているときだ。この理屈だと、世界のエリートがみんな教養のない人だったら、教養なんて必要ないってことになってしまう。世界のエリートとの会話のために教養を身につけようとするのは、本当にオススメしない。



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