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「清潔で、とても明るいところ」

風速1m/sで体感温度が1℃下がる。東京は温暖な印象があるかもしれないが、気温4℃に風速10m/sとなると体感温度は-6度。
東京の冬は風が強い。

夜間、交通誘導員のバイト。早稲田通り高田馬場付近。
2月初旬。厳寒期。細かい数字はわからないが風速10m/sはあったと思う。
誘導に2人必要な所は休憩などのため3人派遣される。その日はなぜか僕だけの派遣。休憩がない事になる。20時から翌朝5時。
派遣元責任者は言う。人員が足りなくなった、割増するので頼む。現場の工事責任者はやることやれば一人で構わないと言う。トイレは言ってくれればその間はこっちでやる。
暗澹たる気持ちで持ち場に入る。23時頃までは交通量が多いので気持ちが紛れる。2人必要な場所を1人で誘導するのは楽ではないが、工夫で頑張れる。短い距離だが走り、誘導灯を回しドライバーに頭を下げる。かなり汗ばむ。

23時を過ぎ、車が少なくなった。5分以上車が来ない。
やることがないと考える。交通誘導を専門に仕事にしている方がいる。工事現場で責任を持って仕事をしている方を目に前にしている。彼らの使命感の様なものは何から生まれているのか。自分にはない。
支給されているジャケットが何か匂う。警備会社を出るとき誰かのジャケットと間違えたようだ。さっきまで忙しく気がつかなかった。自分の臭いでない体臭が僕を包む。この低温でも臭う。めまいがする。
ジャケットを脱ぐことにする。これが良くなかった。強い風で一瞬で汗を冷やされ体温が持っていかれる。慌ててジャケットを着るが冷えた汗が体に張り付く。足踏みをしながら立つ。地面から冷気が忍び寄る。

体を壊し会社を辞めた。辞めた会社からフリーとして仕事を請けていた。フリーでない。小間使い。プレゼンテーションのテキスト、カタログやフライヤーのコピーやテキスト、そしてお使い。
感心したのが僕の立場が変わっただけで、ここまで強気になる人間がいるという事。
常務からお前は会社にたかるウジ虫だと言われる。説明書のテキスト作成では10回以上の戻し。最終的に2番目のものが採用。その常務から執拗に絡まれる。同期に聞いてみる。俺は今まで人に恨まれるような仕事ぶりだったのだろうか。同期は驚き事実確認に動いてくれるが相手が常務なので僕が押しとどめる。同期が言う、そんな働き方はしていなかった。お前の相手とすぐ仲良くなりその懐に飛び込むのが羨ましかったぐらいだ。当時の上司も来てくれた、お前の何かが奴の何かに触れたのかもしれないが、あいつもそんなことをするとは人として恥ずかしい。次に何かあったら言えよ。

言えるわけがない。相手は常務。彼らにとってもきつい存在。
常務が延滞していた自宅の電話料金を払うように言われる。相当遅れたらしく、振り込みができずNTTまで行かなければならないらしい。
4万ほどの現金を預かりうんざりしながらNTTに向かう。受付の50代の男性から何故本人が来ない、あなたは誰なんだと。説教を喰らう。そして振り込みでも良かったらしい。なぜか延滞金は8千円ほどだった。消耗し社に帰る。

常務のいる机を蹴とばす。驚いて席を立つ常務。僕はかなり大きな声を出した。お前の延滞した電話料金8千円、なぜおれが払いに行くんだ。
常務は焦り、周りを気にしてこちらに向かって来る。僕は横にあったシュレッダーにお釣りの3万2千円を入れた。
仕事がなくなった。

深夜1時半頃に工事が止まる。機器の不具合で工事が出来ないそうだ。今日はこれで終わらざる得ないとのこと。工事責任者は僕の派遣先に連絡を入れる。15分後に迎えに来るという事だから、と言う。車に工事関係者全員を乗せ、行った。
致命的な事に気が付く。財布と携帯がない。警備会社でジャケットを間違えた時に紛れ込たのかもしれない。どの店にも入ることができない。連絡も取れない。迎えは来ない。
風は更に強くなる。熱が出ているようだ。両手で体を抱える。立っていることがきつい。ビルの陰など風をしのげる場所を探す。体がよろける。脇道に入る。路面が歪む。入口が開いているビルを探し風を逃れようと考えたが、どこも施錠されている。ガードレールの陰に一人しゃがむ。目の前がきしむ。路地には街灯があるがその明るさは僕に届かない。
マンションの明かりが見える。その上には「普通の人々」が眠る暗闇。おとぎ話のような明かりと暗闇。

一人。完全な一人。前には暗闇が横たわる。闇に食われる。
それを誰も知らない。

肩を叩かれた。
「あなた、どうしたの」
声が出ない。その人は僕を見下ろす。
「あなた、ひどい顔してる、行こう」
立ち上がれない。その人が手伝ってくれる。女性だ。
女性の後をよろめきながら歩く。

ビルの1階、表通りに面したドアを女性が開ける。暖かい明かりが中からあふれ出た。店のようだ。木を基調とした内装。入口からカウンターが奥まで続き、奥にテーブル席が2つほど。小さな店。
カウンターの椅子に座るよう促される。僕を連れてきた女性、40代ぐらいだろうか。カウンターの中には男性が一人。
前に白い大きめの湯気が沸くお椀が置かれる。
「食べて」僕を連れてきた女性が言う。
「財布、ないんです」
「何となくわかるよ、この時間にあそこで倒れているのは。いいから」
ネギと生姜がたくさん入った味噌ベースのスープ。最初、味がわからなかった。3口目ぐらいで味がわかるようになる。寒さに長時間やられると舌がおかしくなるのだろうか。
中にワンタンが入っている。拘縮していた血管が緩み、体がほぐれていく。ゆっくり食べていたつもりが平らげていた。店の暖房が僕を包む。入り口近くの窓ガラスは湯気で曇っている。店の中は清潔で、整頓されている。僕を連れてきた女性は少し離れたカウンター席でコーヒーを飲んでいる。
礼を言い、お金は後日払いに来ると伝えた。
「今から外に出てもまた倒れるだけだよ、始発が出るまでここにいなさい」
外を見るとさっきより強い風が吹いている。僅かに雪も舞っている。言葉に甘えて始発まで居させてもらうことにした。店の暖房は天井に吊るされたエアコンと入り口近くに丸い石油ストーブとオイルヒーター。石油ストーブの上にはヤカンが置かれ、優しく湯気を出している。
カウンターの中の男性が僕の前にさっきと同じ形の椀を置く。ビーフシチューにヌードル。
「この人、洋食屋で修業したの。美味しいから。それ、昨日の残りだから遠慮しないで」
僕を連れて来た女性が言う。言葉に甘えて頂く。濃いデミグラスソースととろける牛肉。ヌードルを絡ませ食べる。
食べ終わると眠気に襲われる。奥のテーブル席で始発まで寝ていて良いと言う。

5時過ぎまで世話になり、礼を言い店を後にした。
そこは明るく暖かく清潔で、そして人がいた。

***

アーネストヘミングウェイ。
1933年に発表された「清潔で、とても明るいところ」。
原題は「A Clean, Well-Lighted Place」。「勝者に報酬はない」という短編集に収録されている。有名な「キリマンジャロの雪」も収まっている。

正直、ヘミングウェイの人物含め、全てをお勧めする気はあまりなれない。狩猟のためにアフリカのサファリへ行き、ライオンをばんばん殺してそれを短編にするあたりは今の時代にそぐわない気がする。例えそこに人としての深淵が描かれていてもスポーツや楽しみのために殺すのは読んでて辛い(そんなこと言い出したら古典なんか読めない。これは僕の趣味)。
人物的にも「パパ・ヘミングウェイ」というイメージは虚像だと思う。好きな事ばかりして嫌なことがあると逃げちゃう。批判されると仕返しする。
ボクサーのマイクタイソンが刑務所にいる間にヘミングウェイを読み、「ダメな奴だが、作品は良い」と言ったらしい。
(マイクタイソン、お前が言うか?)

しかしそれを吹っ飛ばすような何かが僕を捉えて離さない。
切り詰めた文体、そこから見える暗渠の中の深淵。

その中でも「清潔で、とても明るいところ」は僕のなかで強い輝きを放つ。個人的には近代文学短編の最上位にあると思う。
スペインの深夜のカフェが舞台。老人、若いウエイター、年上のウエイター。自殺未遂とか無/虚無(ナダ)という単語がでる。これだけで十分暗い。そこを貫く引き締まった透明感。
「無/虚無(ナダ)」を抱え、社会に圧迫された人間が闇から逃れるには「清潔で、とても明るいところ」が必要なのだ。

僕は2020年6月から小説を書きはじめた。今まで21本の小説を書いたが、「清潔で、とても明るいところ」に影響を受けたものは多い。
特に色濃く影響を受けたのがこれだ。4万字もあるので時間がある時に読んで頂くと嬉しい。

***

あの店にはしばらく通った。僕を連れて行った女性はオーナーだった。カウンターの中にいた男性と2人で切り盛りしていた。
深夜の営業はしておらず、あの日何故深夜に店を開けていたのか、わからない。
繁盛しており、話をするタイミングはなかったが、オーナーと調理を担当している男性と目を合わせるだけで十分だった。

生活のリズムが変わり、高田馬場に寄るのが難しくなった。1年ほど店から遠のいた。久しぶりに寄ると店はラーメン屋になっていた。

でも僕の中にその「清潔で、とても明るいところ」は今でも明るく暖かい光を放っている。

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